4月28日主日礼拝メッセージ

 

霊が住まう心へ

 

 

エゼキエル書 36:24-28

新共同訳1356p

口語訳1202p

 

 

 みなさんは自分で自分が変わったなと思ったことはあるでしょうか。あるいは人から「最近変わったね」と言われた経験はあるでしょうか。おそらく誰しもが一度くらいは経験したことがあったりするものだと思います。私たちは生きていく中で数多くの変化を経験します。しかし、一口に変化と言ってもそれは様々あると思います。例えば外見の変化だったりなどは服装や髪型を変えただけで意外と簡単に実現できてしまうものでしょう。

 

 しかし、こと内面の変化においてはどうでしょうか。私たちはこの内面を変化させるという点に関しては非常に難しいと感じるものではないでしょうか。なぜならそれは自分自身の核を変えるというべきものであり、それはもはや自分自身の力で変えることはできないようにも感じるものだからです。私たちクリスチャンにとってその変化は神との出会いによってすでに起こされたことだと思います。

 

 みなさんはそれがどんな時に起こされたのか思い出すことができるでしょうか。おそらく何かしらの危機に直面したときだったという方が多いのではないでしょうか。私たちは生きている中で多くの危機に直面します。危機とは私たちにとってできれば避けたいものでもあるかもしれませんが、裏を返せばそれは私たちが神と新たに出会い直し、そのことで私たちが神によって変えられるチャンスでもあります。

 

 今日の聖書箇所でもそのような危機の中でイスラエルが神によって変えられていく物語が語られています。この箇所で何度も出てくる「お前たち」とは当時のイスラエルを指していますが、当時のイスラエルは危機的状況にありました。イスラエルにとって最大の危機、それはバビロン捕囚の期間に他ならなかったと思います。戦争によって全てを失い、今まで住んでいたところからも引き離されて、彼らはこの出来事によってあらゆる意味で危機的状況に陥ることとなりました。そして旧約聖書のほとんどはこの捕囚の期間中からその直後にかけて編纂されたと言われています。なぜ、よりにもよって強制的に他国で過ごさなければならなかったこの期間に彼らは聖書を編纂し始めたのでしょうか。

 

 それは、まさに危機的状況にこそより深く私たち人間に関わる神の導きであると共に、イスラエルがそれまでの自分達自身を振り返ることができた期間だったのではないかと思います。当時のイスラエルは捕囚という危機的状況の中で自分達のアイデンティティ、言い換えれば自分達の神は誰なのかということを考え直したのだと思います。その中で彼らは新しくまた神と出会い、そして彼ら自身が神によって変えられるという経験をしたのです。

 

 今日読んでいるエゼキエル書は、そんな彼らに回復の約束が語られていくという希望の物語を語っています。24節にはこうあります。「わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。」イスラエルとって自分達の神であるヤハウェとはもちろん特別な存在でした。しかし、そのような存在でありながら、彼らは神を軽んじ、神の御言葉にも従わなかったということを聖書は語っています。

 

 彼らは自分達が危機に陥って初めて神の存在の大切さに改めて気づきました。そして同時にそんな自分達に神の側から関わり続けてくださっていたことにも気づきました。この聖書箇所では「わたし」である「神」が「お前たち」である「イスラエル」に語りかける形になっていますが、その全てが「わたしがお前にたち〜する」という言葉になっています。これは自分達の力で自分達を変えるのではなく、神こそが自分達イスラエルを変えてくださるのだということの表現なのだと思います。

 

 自分たちの、人間の心はただ神によってのみ変えられていくということを聖書は語っています。神は神との関係の道から逸れて、迷い出てしまった彼らを再びご自分の元へと導き入れることを告げられます。そして彼らの心を石の心から肉の心へ、すなわち、頑なで御言葉を受け入れない心から、柔らかで神の御言葉に応答することができる心を新たに与えられるのです。

 

 神はいつも私たちに向けて語りかけられていますが、しかし、私たちがそれを自分たちに向けられた御言葉として受け入れられるかどうかは私たちの心にかかっています。私たちの心が石のように頑なになってしまっている時、私たちは神の語りかけを御言葉として受け取ることはできないでしょう。それどころか神の語りかけを自分に邪魔なものとして排除してしまうようになってしまうと思います。

 

 当時のイスラエルはまさにそのような状態であったわけです。石のようになってしまった心はもはや彼ら自身の力ではどうすることもできませんでした。彼らの内面が変わるためには、神の力と助けが必要不可欠でした。彼らはそのことを自分達が危機に直面したからこそ気づき、そして神に立ち返っていくことができました。私たちもまた彼らと同じような経験はないでしょうか。

 

 私たちの内面が変えられていくということは、私たちが新たに神に出会い直すときでもあります。それは神の側から私たちに近づいてきてくださり、私たちの心に触れてくださるからこそ起こされる奇跡です。そして神はそんな変えられた彼らの、私たちの心にご自分の霊を置かれると約束されます。「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」

 

 神がご自分の霊を私たちの心に与えてくださるからこそ、私たちは神との関係の中で生きることができます。イスラエルはそのことを捕囚という危機的出来事を通して思い知らされました。だからこそ、ここで語られていることの一つひとつには何ひとつ自分達の力によって達成したと言えるようなことはありません。徹頭徹尾、神の側から起こされた憐れみの業として語られています。

 

 そのように神の憐れみによってイスラエルは、私たちは変えられていきます。神がそのような変化を私たちに与えられるのは、人間が神との関係の中でこそ心豊かに、本来の人間らしく生きることができるからです。だからこそ神は私たちをご自分との関係の中で生きるようにと、いつも招かれています。神はイスラエルに呼びかけられます。「お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」と。

 

この「先祖の与えた地」とはイスラエルに約束され、与えれた土地という意味以上に特別な意味を持っていると思います。すなわち、それは神と関係の中という意味での約束の地です。そしてその約束の地は今を生きる私たちにも約束されているものです。私たちはその心を神によって新たなものに変えられて、神との関係の中で生きることに常に招かれています。それは私たちにとっての復活であり、福音であり、救いそのものです。

 

 私たちは私たちの心を神に変えられることを恐れずに、むしろ喜びを持って受け入れていこうではありませんか。神は今も生きておられ、私たちの心に語りかけ続けてくださっているのですから。祈ります。

 

 

 

わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。

4月21日主日礼拝メッセージ

 

神の招きの先に

 

 

ヨハネによる福音書 21:15-19

新共同訳211p

口語訳178p

 

 

 みなさんは小さい頃何になりたかったでしょうか。きっとその時それぞれが思い描いていた未来の自分の姿があったことでしょう。では今その時思い描いていた自分の姿になっているでしょうか。もちろんその時と同じ姿になっている人もいるかもしれませんが、それとは違った姿になっている方も多いのではないでしょうか。これは別に小さい頃の夢の通りになったからよい、ならなかったから悪いということを言いたいのではありません。

 

 そうではなくて、人は誰でも多かれ少なかれ「自分が思いもよらなかった場所や立場や働きに直面する時がある」ということです。もし先ほど、子供の頃の夢の通りになったという人がいたとしても、その中では自分が想像できなかった出来事やあるいは困難に直面させられたこともあるのではないでしょうか。そうだとすれば、私たちは誰しもが、かつて自分が望んでいなかった今を少なからず生きているということになります。

 

 しかし、これは考えてみれば当たり前のことでもあります。私たちは私たちに起きるすべての事柄をコントロールすることはできないからです。だから私たちはそのような自分の想像を超えた人生という道とどのように向き合うのかが問われていると思います。私たちがそのように問われているのと同じように、今日の聖書箇所でも自分自身を、そして自分自身のこれからの歩みを問われている人物が登場しています。それがイエスの一番弟子、ペトロです。

 

 彼はイエスからこう問われています。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。この問いですが実は次のようにも訳すことができます。「ヨハネの子シモン、これらのもの以上にわたしを愛しているか」と。「この人たち以上に」と取るとペトロが彼の周りにいた他の弟子たちを愛するよりも、あるいは他の弟子たちがイエスを愛する以上にペトロがイエスを愛しているか、とイエスが聞いたということになります。しかし、そのどちらであったとしても違和感が残ると私は思っています。なぜなら、イエスが弟子たちに問うときはいつでも他の誰かが関係することではなくて、問われたその人自身の中で完結する事柄を問われていたからです。

 

 ではここを「これらのもの」とした場合の「これら」とは一体何になるでしょうか。その答えを導く鍵はこの問いが食事の直後にあったものだというところにあると思います。先の箇所でイエスは弟子たちと一緒に食事をされていましたから、その流れの中での「これらのもの」とは食事のことを指しているのではないかと思います。そしてその食事はイエスによって備えられ、与えられたものでした。つまり、ここで言われている「食事」とは神が備えられた「恵み」のことを表しているものなのです。

 

 だとすればイエスがペトロにされた問いの意味も見えてくると思います。私たちは目に見えて与えられた「恵み」には敏感に反応するものだと思います。それはわかりやすく自分に益をもたらしてくれるものであるからです。そして、私たちは時にそれらの「恵み」に夢中になってしまうこともあったりするのではないでしょうか。その結果、それらの「恵み」を与えてくださった神のことを忘れてしまうこともあったりはしないでしょうか。

 

 イエスがここでペトロに問われている問いとはまさにそのことを聞いているのだと思います。「ペトロ、あなたは私があなたに与えた恵み以上にわたしを愛しているのか」と。ペトロはこのイエスの問いにこう答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。このペトロの答えに皆さんはどのような印象を持つでしょうか。

 

 少し調子に乗りやすいペトロの性格がよく現れた返答ではないかと思います。イエスの問いに躊躇いなく答え、そしてそれは一番あなたがよくわかっているという、どこか太々しささえ感じさせる返答はペトロらしさが溢れた解答だと思うわけです。しかし、ここでペトロはイエスの問いの真の意味に気がついていたのかは疑問が残ります。

 

 というのもイエスが問われた「愛する」とペトロが答えた「愛する」は意味の違う言葉が原語では用いられているからです。イエスが問われた「愛する」はアガペーの愛のことです。これは簡単に言えば「何の見返りも期待しない愛、神の愛」のことを指しています。対してペトロが答えた「愛する」はフィレオーの愛、「同じ考えや、同じ活動をしているものどうしが持つ愛、友人愛」のことを指しています。

 

 つまりこのイエスとペトロの問答は一見噛み合っているかに見えますが、その実噛み合っていないわけです。イエスが本当にペトロに聞きたかったことに、ペトロは答えてはいないわけですから。しかし、イエスはそんなペトロにこう言われるのです。「わたしの小羊を飼いなさい」と。この物語では最終的にイエスが都合3度ペトロに問われ、ペトロがそれに答えていくということが繰り返されますが、その度にイエスがペトロに言われる言葉も変わっていきます。

 

 それはなぜなのかということを考えつつ、2番目の問いについて考えてみたいと思います。ここでもイエスは「これらのもの以上」ということを言わずに「わたしを愛しているか」と問われています。そしてそれに対するペトロの返答も同じものになっています。そして二者が用いる「愛する」の意味も先ほどと全く同じです。イエスはアガペーの愛で愛するかと問い、ペトロはフィレオーの愛で愛すると答えます。

 

 全く同じ問答の問答のように思えますが1回目と異なる点が二つあります。一つは単純に「わたしを愛しているか」と聞いているところです。「これらのもの以上に」言い換えれば「恵み以上に」という言葉が抜けたことでイエスの方からよりペトロに歩み寄ってくださっていることに気がつくでしょうか。なぜならそれは「恵み」という見返りを求めずにはいられない私たちの弱さにイエスが歩み寄ってくださったということを表しているからです。

 

 そして二つ目は変わらずフィレオーの愛しか持ち得ないペトロであっても、イエスは「わたしの羊の世話をしなさい」と一回目とは異なる働きを託しておられる点です。変わらないペトロに対してイエスの方から歩み寄ってくださり、ペトロに適した働きを与えてくださっています。そしてそのことは三回目の問答でさらに顕著になります。

 

 三回目でのイエスの問いは「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と一見二回目と変わらないように見えます。しかし、ここでのイエスが用いられた「愛する」はこれまでペトロが用いてきた「愛する」、つまりフィレオーの愛に変わっているのです。しかし、ペトロはおそらくそんなイエスの歩み寄りにも気がついていないかに見えます。なぜなら彼は3度もイエスに問われたことを悲しんでいるからです。

 

 この場面でのペトロはまさに私たち自身姿だと思います。私たちはイエスと同じ愛で愛することはできない弱い存在です。しかし、そんな私たちの弱さをも含めて神は受け入れてくださり、そしてその弱さに歩み寄ってきてくださる方です。さらにはそんな私たちにそれぞれが進むべき道をも示してくださる方です。「わたしの羊を飼いなさい」と3度目にイエスはペトロに言われました。

 

 また最後にこうも言われています。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と。私たちには私たち自身の人生を完全にコントロールすることはできません。時には自分の望んでいない場所や立場や困難に直面させられることもあるでしょう。

 

 しかし、そんな中であっても神はいつも私たちに歩み寄ってくださり、そして必要な助けを備えてくださる方です。イエスはペトロに、そして私たちに言われます。「わたしに従いなさい」と。私たちはそのイエスからの呼びかけに勇気をもって一歩踏み出して応答していこうではありませんか。神が示される道は私たちの想像を超えた出来事が待ち受けているかもしれません。しかし、それと同じくらい、いえそれ以上に私たちが目にするのは神の豊かな恵みと導きに他ならないはずですから。祈ります。

 

 

 

三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」

4月14日主日礼拝メッセージ

 

さぁ、来て、恵みを…

 

 

ヨハネによる福音書 21:1-14

新共同訳211p

口語訳177p

 

 

 突然ですが、みなさんは心配性な方でしょうか。それともそうでもないでしょうか。私はけっこう心配性な方で何かを計画する際にはあれこれ考えてしまうタイプなんですね。特に今年は連合の会長になったので、連合全体の計画を立てる時に「これでいいだろうか」とか「予算はこの配分で足りるだろうか」などと考え込んでしまうわけです。みなさんもきっと多かれ少なかれ、何かを計画する時には同じような経験をされるものではないでしょうか。

 

 私たちは未来がわからないゆえに先のことに関して不安を抱きがちです。もちろん全く考えなしゆえに不安がないというのは、それはそれで問題だと思いますが、どちらかといえば私たちは「先のことを考えすぎて不安になってしまう」ということの方が多いのではないでしょうか。しかし、後からその事柄を振り返ってみた時に、意外と全てのことが備えられ、整えられていて、あのときの自分の不安は杞憂だったことに気付かされたということもあったりするものではないでしょうか。

 

 今日の聖書箇所はまさにそのような全てのことが備えられていることに気付かされていく弟子たちの物語になっています。イエスは復活された後、何度か弟子たちの前に姿を現されていますが、それは弟子たちが未だに半信半疑のような思いだったからかもしれません。おそらくこの時の弟子たちの心情は大きな不安を抱えていたものだったのではないでしょうか。復活のイエスと出会ったものの、それを信じきることもできず、これから何をすればいいのかもわからない…。

 

 そんな中、何かをしなければ落ち着かなかったからなのか、あるいは空腹ゆえなのかペトロは他の弟子たち漁に行くことを告げます。そして他の弟子たちもペトロと一緒に漁に出ることにしました。彼らの中には元々漁師であった者たちが何人かいましたから、普段通りであれば何匹かの魚がとれたことでしょう。しかし、「その夜は何もとれなかった」ことを聖書は語っています。なぜ何もとれなかったのでしょうか。その理由はもちろんわかりませんが、ひとつ確かなことはここでペトロたちが漁に出た理由は「自分達の必要」からだったということです。

 

 彼らは自分達が食べるための魚をとるために漁に出ました。もちろん漁師であれば、それはごく当たり前のことではありますが、彼らは漁師からイエスの弟子になったものたち、言い換えれば「人間をとる漁師」とされた者たちでした。つまり、ここでの「漁」には比喩的な意味が込められているということです。彼らが自分達の必要から「漁」に出る限り、「魚」は決してとれないことを聖書は私たちに語っているということです。

 

 弟子たちが何もとることができず、途方に暮れた夜を過ごしたのち、彼らは再びイエスと出会います。しかし、そのとき弟子たちにはイエスだとわからなかったとあります。これは彼らが未だに復活のイエスと向き合うことができていないことを示してているのではないでしょうか。そんな弟子たちにイエスは問われます。「子たちよ、何か食べる物があるか」と。

 

 このイエスの言葉は単純に食べ物の有無を弟子たちに問うているものではないと思います。そうではなくて、イエスはこの言葉によってご自身の必要を、言い換えれば「神の必要」を弟子たちに伝えたかったのだと思います。神が求めておられることがあることを、そしてそのための働きを弟子たちに期待しておられることを伝えられたかったのだと思います。

 

弟子たちが「自分達の必要」から漁に出た時、弟子たちは何もとることができませんでした。しかし、「神の必要」に従って漁に出た今はどうでしょうか。弟子たちがイエスの言われた通りに網を打つと、「魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」とあります。弟子たちは漁に出る前、さぞ不安だったでしょう。もしくは諦めの思いもあったかもしれません。

 

なぜなら、自分達がどんなに手を尽くしても何も得ることができなかったことを経験してしまったからです。しかし、そんな思いの中「自分達の必要」からではなく、「神の必要」を聞き取り、働きに出た時、弟子たちは食べきれないほどの「魚」を、言い換えれば有り余るほどの恵みを目の当たりにしたのでした。そして弟子たちはその恵みを目にした時、初めて自分達に言葉をかけられた人がイエスであったことに気がつきます。

 

 私たちもまた「自分達の必要」でいっぱいになっている時があったりするかもしれません。そんな時というのは、私たちは「神の必要」から遠く離れ、神ご自身さえも見失っている時なのかもしれません。しかし、神はそのような時でさえ、私たちに語りかけてくださり、神の必要のために働くようにと私たちを召し出してくださり、そしてその働きの先に豊かな恵みをも備えてくださる方なのです。

 

 さて、弟子たちはとれた大量の魚を引いて陸へともどってきました。そこで弟子たちが目にした光景は炭火が起こしており、そこに魚やパンさえもあったと聖書は記しています。これに違和感を感じないでしょうか。弟子たちは食べるものがなかったから漁に出たわけです。しかし、何もとることができず、イエスの言葉に従って改めて漁にでた今、やっと魚をとることができたわけです。

 

 つまり、弟子が陸に戻ってくる前に炭火に魚がのせてあったり、それだけでなくパンまであるこの状況は普通に考えれば辻褄が合わないわけです。しかし、この場面にこそこの箇所で聖書が私たちに伝えたかったメッセージの本質があると思います。すなわち、弟子たちが漁に出て仮に何もとれなかったとしても、神は恵みを備えてくださる方だということです。

 

 ここにおいて弟子たちは「神の必要」のために働き、結果として大量の魚、大きな恵みを受けたわけです。しかし、私たちは「神の必要」のために働いたとしてもここでのようにそれがすぐに目に見える形で、大きな結果として必ずしも現れるわけではありません。神の恵みの約束は確かに私たちに与えられてはいますが、それがいつ、どんな時かまでは私たちに知らされてはいないからです。

 

 聖書に登場する多くの人物も神から約束を受け取っていながら、それを目にするまでには長い時間を過ごしました。アブラハムもモーセもダビデもその他の人物も皆そうでした。そのことは私たちに神の約束の結果を知るには忍耐が必要だということを示しています。そんな長い忍耐の中で私たちは時に諦めかけてしまったり、落胆してしまうこともあることでしょう。弟子たちも何もとれなかった漁の後、過ごした夜はとてもとても長いものに感じられたことでしょう。

 

 ですが、たとえ私たちが目に見える大きな恵みを受けていないと感じている時でも、神は確かに私たちに恵みを備えてくださっていることをこの御言葉は私たちに語っているのです。仮に弟子たちが何もとることができなかったとしても、神は弟子たちを、私たちを迎えて、こう言われるのです。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と。

 

 私たちがそんな神が備えてくださったささやかな恵みに気づいていく時、私たちはまた復活の主と出会い直すことでしょう。神は何度でも私たちと新たに出会ってくださり、そしてその度に新たな恵みに気づかせてくださる方ですから、祈ります。

 

 

 

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

4月7日主日礼拝メッセージ

 

今に生かす復活

 

 

ペトロの手紙 一 1:3-9

新共同訳428p

口語訳366p

 

 

 私たちは先週イースターを迎えました。イースターはイエス・キリストの復活を記念するのものであり、それは同時に私たちにとっての希望を指し示す出来事です。ではなぜイエスの復活が私たちの希望につながるのでしょうか。そのことは私たちの信仰の核とも言えるべきことであり、私たちに与えられた神の約束そのものだからです。ゆえにもしイエスの復活がなかったなら、約束を、希望そのものを失うことになります。

 

 パウロは復活について『コリントの信徒への手紙』にて次のように語っています。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。ここでパウロはかなり強い言葉を使って語っているのがわかります。現代でもそうだと思いますが、初代教会の時代でも「復活」という出来事は容易には受け入れ難いものであり、同時に議論の的でした。

 

それゆえに先のパウロの言葉のように聖書の中には「復活」について語った言葉が数多く残っています。今日の聖書箇所でも「復活」という神の出来事が私たち人間の希望にいかに深く関係しているのかを語っているものになっています。「復活」は私たちの信仰の核でありながら、そのことを私たちは完全に、理性的に説明することはできません。しかし、それは裏を返せば「復活」というものが紛れもない神の力においてなされた奇跡であることを示すものでもあります。そしてそれゆえに私たちの想像を遥かに超えた希望を生み出すものであることを私たちは信仰を通して受け取っているはずです。

 

 今日はそのような「復活」が指し示す約束と希望を改めて聖書から聴いていきたいと思います。まず今日の冒頭にはこうあります。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。

 

 「わたしたちを新たに生まれさせ」る、このことはいったいどのようなことでしょうか。このことについて『ヨハネによる福音書』においてイエスは次のように言われています。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」このことから「新たに生まれる」とは神を信じる、さらに言えば神との関係に入れられることを指しています。

 

 私たちはその罪により神との関係も断絶寸前の状態にありましたが、神の豊かな憐れみ、言い換えればイエスの十字架の死によって、その切れかけた関係が回復されたわけです。しかし、もしこれだけであったのなら、私たちは再び神との関係から離れ、また自ら滅びへと向かってしまっていったかもしれません。なぜなら、私たち人間が生きていくためには目を注ぎ続ける希望、約束が必要だからです。

 

 聖書に登場する人物は皆この約束を希望として生きることを示された人々です。アブラハムもモーセもダビデも、その他多くの聖書で語られた人々が神の約束を希望としてその人生を生きていきました。そしてその約束は約束を受けた者の想像を遥かに超えて与えられ、果たされていったものでもあります。そうであるならば、私たちが受け取っている約束、希望もまた同様であるはずです。

 

 すなわち、「イエスの復活」という私たちに与えられている希望が指し示すものもまた、私たちの想像を遥かに超えて果たされていくものだということです。そしてそのことは私たちの肉体の目では見ることができないものです。「新たに生まれる」とは私たちが神との関係に入れられるのと同時に、私たちの霊の目が開かれることでもあります。ゆえに「復活」もこの霊の目でしか捉えられないものなのです。

 

 そのことついては次にように語られている通りです。5節「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」。これによれば私たちは既に救いに与っていながらも、未だ救いを受けていないという状態にあることがわかります。普通に考えれば矛盾に思えますが、これはいったどのような意味でしょうか。私たちはイエスの十字架によって救われて、そして今を生きているわけですが、その今の状態が神の救いの完成形ではないということです。

 

 私たちに与えられた救いは神が示す「終わりの時」に完成されます。その終わりの時の救いをイエスの復活は指し示しています。ゆえに私たちはイエスの復活の中に私たち自身の救いを重ね合わせて見ることができます。私たちは完全な救いへの途上にありながらも、その完成を期待しつつそのことを希望として歩んでいるものであるわけです。

 

 私たちの人生はそのような「既に」と「未だ」の間を歩むものであるわけですが、その中で私たちが経験するであろう様々な試練、困難について聖書は決して無視することなく向き合っています。私たちは主の祈りの中で毎回こう祈っているはずです。「我らを試みにあわせず、悪より出したまえ」と。しかし、私たちの現在には多くの苦難があるのも否定できない事実でしょう。

 

 私たちはこのことをどう受け止めるべきでしょうか。これは非常に難しい問題ではありますが、しかしただ一つ言えることは、神は私たちを滅ぼす目的で試練を備えられるわけでは決してないということです。聖書は試練についてこう語ります。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」

 

 そもそも私たちの試練はいつ「試練」となるのでしょうか。もし私たちが神との関係に入れられていなければ、それはただの苦難としか思わないかもしれません。しかし、私たちは神との関係においてそれぞれが目の前に置かれた苦難を試練であると受け取る時があるはずです。それはあくまで神とその人との個人的な関係の中で受け取っていくものでありますが、そうして私たちの苦難が試練になったとき、私たちの心はそのことを通して文字通り精錬され、神との関係が深められていくこともまた私たちが経験したことのある確かな事実ではないでしょうか。

 

 そしてまた私たちはそのような試練を通して「新たに生まれる」、いえ、「新たに生まれ変わらされつづける」存在でもあります。私たちはそのような生まれ変わりを経験しながら、「既に」と「未だ」の間を生きているのです。私たちはイエスを、イエスの復活をたとえ今見なくても信じています。なぜなら私たちはイエスの復活を神の確かな希望の光として霊の目で見つめつつ、神との関係の中でその希望の喜びを受け取っているのですから。祈ります。

 

 

あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。