6月23日主日礼拝メッセージ

 

御言葉の未来に

 

 

ヨハネによる福音書4:43-54

新共同訳171p

口語訳142p

 

 

 人間は普段からその対象は様々なものであるにせよ「信じる」という行為をしていると思います。私たちクリスチャンにとってはその対象はもちろん神であるわけですが、私たちはこの「信じる」とという行為の本質的な意味を理解しているでしょうか。そんなこといっても「信じる」は「信じる」でしょ、と思われるかもしれませんが、それでもなおこの「信じる」という言葉を、そして「信じる」という行為をより深く理解することは大切なことだと思うのです。

 

 なぜならこの「信じる」という行為は聖書の中でも数多く登場しており、さまざまな人々が、さまざまな場面で、さまざまなあり方で「信じて」いるからです。その一つひとつのそれぞれディティールは異なってはいますが、その根底を貫くあり方は共通しています。私たちにとって「信じる」ということはとても大切なことであるのと同時に考え続けるべき永遠のテーマでもあります。

 

 「信じる」ということの本質はどのようなことなのか、それを理解していくときに私たちはまた新たに神と出会い直すことができるでしょう。今日の聖書箇所はそのような「信じる」ということの意味がテーマになっています。今日の箇所ではイエスがご自分の故郷であるガリラヤに帰ってこられた場面から始まっています。イエスはガリラヤに帰られる際、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われました。

 

 なぜイエスはこのようなことを言われたのでしょうか。それはイエスの故郷であるガリラヤの人々がこれまでのイエスのことよく知っていると思っていることが関係していると思われます。つまり、彼らは少年時代からイエスのことをよく知っていて、イエスのことを「大工のヨセフの息子のイエス」としか思っていなかったということです。そのことは彼らにイエスに何の期待もさせないようにさせるには十分なことだったのかもしれません。

 

 彼らが目で見た情報が彼らの目を曇らせていました。それでも彼らは一応イエスを歓迎したとはあります。その理由は「エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたから」でした。つまり、彼らは「しるし」という目で見て体験できるものを理由にして態度を変えたのだと思われます。もし、彼らが「しるし」という実際を体験していなければ、彼らはイエスを歓迎はしなかったでしょう。

 

 そのようなことがありながらも、イエスはここで再びカナに向かわれています。カナとは今日の箇所でも書かれている通り、イエスが水をぶどう酒に変える奇跡をなされた、つまり「しるし」を表された場所です。2:11にはイエスの弟子たちはカナで起こされたこの「しるし」を見て、イエスを信じたとあります。つまりこの時点では弟子たちすらも「しるし」を理由にイエスを信じていたということです。

 

 カナをイエスがまた再び尋ねられた理由、それは前起こされたこと以上の出来事がこれからここで起こされるためでした。それは人々が「しるし」という過去を理由に信じるのではなく、「御言葉」という未来を見つめて信じるようにされるためでした。さて、ここで一人の人がイエスのもとにやってきます。彼はカファルナウムの王の役人でした。王に仕える役人ですから、この人は地位も、財産もそれなりに持っていた人であったと思います。

 

 そのような人がイエスのもとにやって来た理由は彼の息子が病気であり、かつ死にかけていたからでした。彼はおそらくイエスのもとに来る前に自分が考えられるあらゆる手段で息子を治そうとしたことでしょう。地位も財産もあった彼が真っ先にイエスのもとに来たとは考えづらいからです。しかし、どんな手段を用いてもどうすることもできなくて、最後の望みでイエスのもとに来たのだと思います。

 

 彼は自分の地位や財産を自分の力だと思っていたことでしょう。これまで彼はその自分の力を使って大抵のことは解決できてきたのかもしれません。しかし今回、そんな自分の力ではどうすることもできない出来事に彼は直面させられたのでした。もしかしたらこのような事態は彼の人生の中で初めてのことだったのかもしれません。とうとう手詰まりになり、絶望しかけていたこの王の役人はイエスの噂を頼りに彼のもとへと向かったのでした。

 

 この役人にとってイエスの噂は眉唾なものとしてしか考えられていなかったと思います。彼は実際にイエスなされたしるしを見たわけでもないからです。そのことはイエスが彼に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われていることからも明らかだと思います。そういう意味ではこの役人もまたイエスに「しるし」を求めてやって来た者の内の一人でした。

 

 彼はその「しるし」を自分にも見せてくれるよう、病の自分の息子のもとまで来て癒してくれるよう頼みますが、イエスから返って来た返答は「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というものであったわけです。彼はイエスからこの言葉を聞いたとき、どんな思いだったでしょうか。もちろん、イエスに対する怒りや、息子が死にかけていることへの悲しみもあったでしょうが、それ以上に自分自身の無力さを痛感させられたのだと思うんですね。

 

 これまでどのようなことも自分の力でなんとかしてこられた彼は、ここにきて初めて自分の無力さと向き合わざると得なくなりました。それは、息子の命という彼にとって諦めきれない切実な理由とイエスの言葉によって初めて彼の心が砕かれた瞬間でした。そのような彼をイエスは御言葉と共に送り出します。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と。

 

 彼はもう「しるし」を求めることはしませんでした。代わりにイエスの御言葉を信じて帰って行きました。後に彼がイエスを信じることなったことを聖書は語っていますが、彼のこの信仰の最初の一歩は誤解を恐れず言えば「賭け」に近いものだったのではないでしょうか。彼は神が語られる「未来」に賭けたのです。御言葉が創り出す未来を信じて、それを示す御言葉に頼ったのです。

 

 私たちにとって「信じる」とは神が示す未来に期待し、その未来を語る御言葉に頼ることです。それが神への信仰、信頼なのだと思います。ヘブライ人への手紙の著者はこう語ります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と。私たちが御言葉に期待し信頼し続ける限り、神はつくしみとまことを持って私たちに応えてくださる方なのですから。祈ります。

 

 

 

イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。

6月16日召天者記念礼拝メッセージ

 

いのちの関係

 

 

ヨハネの手紙 一 2:24-25

新共同訳443p

口語訳377p

 

 

 今年もこうして召天者のご家族の方々とご一緒に召天者記念礼拝を捧げられることを感謝します。毎年この時が来ると思わされるのは、私たち大村古賀島教会はこれまで多くの方々をお見送りしてきたのだなということです。それは私がこの教会に赴任する前から続いている教会と召天者の方々との関わりがあったからこそだと思います。

 

私自身は直接関わりがなかった召天者の方々もおられますけれども、今こうして召天者記念礼拝が捧げられているのは、大村古賀島教会がその方々を覚え続けているから、言い換えれば神が召天者の方々お一人おひとりと今もなお関係を持ち続けて下さっているからでしょう。そして私たちにとってそのことは何にも代え難い希望そのものでもあります。

 

 聖書は私たちにそのような希望を指し示し続ける書物です。聖書は私たちがたとえ肉体の死を迎えたとしても、それで全てが終わりではないことを繰り返し語り続けています。もし、肉体の死が全ての終わりなのだとしたら、私たちの命はとても虚しいものです。どんなに華々しい人生を送ったとしても、その先には必ず「死」という絶対的なものが待ち構え、全てを攫っていくのですから。私たち自身はそのような「死」に対して圧倒的に無力です。私たちはいかなる方法を用いても「死」から逃れる方法はありません。

 

しかし、聖書はそのような「死」の絶対性ではなく、その死をも超越する希望を指し示しています。そして、それこそが神が私たちに約束するものでもあります。聖書はその約束を私たちに届けるために書かれた書物です。私たちが今読んでいる聖書には「旧約」と「新約」という題がついていますが、そのどちらにも「約」という文字が入っています。

 

これは言うまでもなく「約束」のことを示しているものです。つまり、聖書の内容を一言で言うとするならば「神の約束」ということになるわけです。ではその約束とは一体どのようなものなのか。それは今日の聖書箇所に示されているものです。25節にはこうあります。「これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です」。神は私たちに永遠の命を約束されています。それは私たち人間が絶対的と思い込んでいる「死」に打ち勝つ、唯一の希望なのです。

 

 ではそのような永遠の命とはどのような意味なのか。そのことをもまた聖書は語っています。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と。ここでの「知る」とは単純に知識として知るということではなく、体験や経験なども含め全人的にそれを理解し実践することを意味します。

 

 つまり、永遠の命とは神と人格的に関わりを持ち、その関係の中で生きるということを意味しているのです。そのことは今日の箇所の24節にも示されている通りです。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」

 

 「初めから聞いていたこと」とは、先ほどの永遠の命がどのようなものであるのかを示す御言葉であるわけです。そのことが私たちの心に留められているということは、言い換えれば私たちが神との関係の中に入れられているということです。私たちは神との関係の中で、神に覚えられ続けています。たとえ、私たちが肉体の死を迎えても、私たちは関係の死を迎えることはありません。

 

 私たちは神の中にいつもあり続けるからです。先に神のもとへ召された方々も、今神との関係に結ばれています。そして、そのような神と一人の人との関係は、人と人との関係にまで広げられています。毎年この召天者記念礼拝に来てくださるご家族の方々、そしてこの場には来られなくても、それぞれの場所でこの礼拝を覚えてくださる方々、そのような関係の広がりを私たちは体験しているのです。。

 

 私たちにとって一人の人の死は重いものです。しかし、決してその死がその人にとって、そして私たちにとって絶対的な終わりではないことを私たちは聖書から知らされるのです。聖書の中に登場する人々も私たちと変わらない一人の人間ですが、彼らもまたその人生の中で自分ではない他者の死と、そして自分自身の死と向き合いながら生きていました。

 

 彼らもまた私たちと同じように「死」というモノに直面させられたとき、そこに絶望や終焉といったことを感じずにはいられなかったかもしれません。それは「死」というモノが肉体的な終わり以上の恐ろしいものとして捉えられていたことと無関係ではないでしょう。私たちは本質的に「死」というモノの何をおそれているのでしょうか。

 

 それは精神的な繋がり、言い換えれば他者との関係の断絶なのだと思います。私たち人間は自分一人で生きられないからこそ、自分ではない他者との関係を求めるものです。だとすれば、それは私たちに命そのものと言っても過言ではないものでしょう。だから私たち人間はそのような命そのものといえる関係が断ち切られることを「死」そのものとして考えてきたのではないでしょうか。

 

 私たちがもし人間同士の関係だけをたよりにしていたならば、それはひどく脆いものかもしれません。なぜなら、私たちの肉体的な死はやはり関係性を希薄にさせるには十分な力を持っているからです。そうであるからこそ、「死」は聖書の時代から今に至るまで恐れられているのでしょうから。ですが、私たちはそのような死の力をも超えて関係を、命を繋ぎ続けて下さっている方を知らされています。

 

 「初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう」。私たちは人同士の関係の中だけで生きているのではありません。私たちの関係の中心におられるのは神だからです。私たちが神との関係に結ばれている限り、私たち同士の関係もまた結ばれ続けているのです。

 

 たとえ「死」の力が私たち同士の関係を断ち切ろうとしたとしても、神がその死をも超える力で命を繋ぎ続けてくださるからです。これが私たちに約束されている永遠の命です。私たちはこのような絶対的な希望を受け取っているのです。今日、私たちは先に召された方々を憶えながら、礼拝を捧げました。この礼拝の中心に神がいてくださるから、私たちと召天者の方々との関係は繋がれ続けています。

 

 今も、そしてこれからも私たちは神の約束を希望としながら、この地上での歩みを続けることが許されているのですから。祈ります。

 

 

初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。

6月9日主日礼拝メッセージ

 

共に喜びの食卓へ

 

 

ヨハネによる福音書 4:27-42

新共同訳170p

口語訳141p

 

 

 「ありがとう」という日本語があります。この言葉は本来「有難い」、つまり「有ること」が「難しい」という意味を持っており、滅多にないことや貴重で有ることを指す言葉で有るわけです。私たちは普段からこの言葉を人に向かって言っていることがほとんどではないでしょうか。人から何かをもらったときや、何かをしてもらった時などの私たちはこの「ありがとう」で相手に感謝を伝えていると思います。

 

 このように人に何かをもらったり、何かをしてもらうことは「有ること」が「難しい」から私たちはそのことが当たり前ではないことをしてくれた感謝を相手に伝えるわけですね。しかし、この言葉は相手に感謝を伝えるのと同時に、もう一つ重要な意味を持っているのだと思います。それは、「ありがとう」という言葉の意味を自分自身に言い聞かせることです。私たちは「有り難い」と相手に伝えるたびに、自分自身に「有り難い」ことを繰り返し言い聞かせているのです。

 

 つまり、「ありがとう」は相手のための言葉でもあり、同時に自分自身のための言葉でもあるのだと思います。このようにあることが相手のためでもあり、同時に自分のためにもなっているということが他にもあることでしょう。そのようなことは相互に良い影響を与えることとして推奨されることでしょうが、聖書の中にもまたそのような相互に影響を与え合うということから始まっていく出来事が記されています。

 

 今日の聖書箇所の冒頭27節にはこうあります。「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。」このイエスと話をしてた女性はサマリア人の女性です。当時サマリア人はユダヤ人から嫌われ、避けられていて、基本的に交流を持つことはありませんでした。

 

 しかし、イエスはそんなサマリア人の女性にご自分から声をかけられて、この女性が本当に求めていたもの、飲めば決して乾くことのない水、永遠の命に至る水のことを語られました。女性はこのことを聞き、イエスをメシアではないかと思い始めることになります。そのようなイエスが女性に宣教されている途中でやってきたのがイエスの弟子たちだったわけです。

 

 彼らの中には「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言うものは居なかったとあります。これはイエスがサマリアの女性と話をされていたことに相当な衝撃を受けたからだと思われます。ユダヤ教のラビ的な立場にあるイエスがサマリア人の女性と話をすることは当時としては考えられないようなことだったわけです。しかし、イエスはそれらの固定観念をも超えてご自分の働きをなされていきました。

 

 イエスの言葉にサマリアの女性もまた大きな衝撃を受けたことでしょう。そのことで彼女の心が変えられていったのだと思います。彼女が水を汲みにきた水瓶を置いたまま町に駆け出したことは、彼女が飲んでも飲んでも乾く水ではなく、イエスが語られた決して乾かない水を見出したことを示しているのだと思います。彼女が向かったのはおそらく自分が住んでいた町だったのでしょう。そこで彼女は言います。

 

 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」彼女は未だ確信は抱けないものの、イエスがメシアであることを早速他の人々に伝え始めています。彼女がイエスのことをメシアだと感じた理由は「わたしが行ったことをすべて、言い当てた」とありますが、このことは言い換えれば彼女のことを誰よりも深く理解してくださったのがイエスであったということなのだと思います。

 

 彼女はイエスの言葉によって影響を受けて、人々の関心をイエスへと向ける働きをしていきました。そして、彼女の言葉を聞いたサマリア人たちはイエスのもとへと向かうことになります。一方、イエスのもとへと帰ってきた弟子とイエスとのやりとりが31節以下に続いています。弟子たちはイエスに食事をとるように勧めますが、イエスは弟子たちに「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と語られ、言葉通りの食事をすることを断られます。

 

 イエスの見当違いの想像をしている弟子たちにさらに語られます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と。食べ物とは私たち人間にとって必要不可欠なものであるのと同時に、喜びや恵みを象徴するものでもあると思います。そうであるならば、イエスにとっての食べ物である父なる神の業を成し遂げられることは、イエスご自身にとっての喜びや惠みになっているということではないでしょうか。

 

 そして、そのことはさらに私たち人間にとっての喜びや恵みにもなっているのです。39節には次のようにあります。「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた」。イエスの言葉によって影響を受けた女性の言葉が用いられて、より多くの人々に影響を与えていきました。

 

 イエスから人へ、そして人から人へと良い影響が広がっていきました。私たちがイエスから聞いた言葉を、御言葉を人に伝えていくことは、同時に自分自身にも言い聞かせることでもあるのだと思います。初めにイエスの言葉を聞いたサマリアの女性も、人に伝えていく中で、自分自身もイエスを信じることができたのではないでしょうか。

 

 そして聖書は最後に最も重要なことを語っています。女性の証によってイエスのもとに来たサマリア人たちは言います。42節「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」彼らは確かに女性に証によってイエスに関心を持ち、イエスのもとへときたかもしれませんが、彼らが本当の意味でイエスを信じることができたのは、彼らが自分自身でイエスの言葉を聞いて、神と出会ったからに他ならないということです。

 

 私たちは他の誰かがいるから神と繋がっているわけではありません。私たちは一人ひとりが直接神と繋がっており、その関係の中で御言葉を受け取っているからです。パウロはこう言います。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と。私たちに良い影響を与えてくださる源は神に他なりません。そしてその影響は人から人へと伝えられていきます。そのことで私たちはイエスが言われたように「神の御心を行い、その業を成し遂げる」という食べ物をイエスと共に味わうことができます。

 

 神は私たちの働きをなにより喜んでくださるかたであり、その喜びに私たちをも招いてくださる方ですから。祈ります。

 

 

 

イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。

6月2日主日礼拝メッセージ

 

なんどでも新たにされて

 

 

ヨハネによる福音書 3:1-15

新共同訳167p

口語訳138p

 

 

 私たち人間がよく陥ってしまう過ちの一つに固定観念に囚われるということがあります。固定観念という言葉を調べると「ある人が自らの心中に潜在している主観、物事について抱いているイメージ、考え方が凝り固まった状態」とありました。私たち人間はこの固定観念から完全に逃れるのは難しいと思います。なぜなら私たちの主観やイメージというものは私たちが考えている以上に強固で覆し難いものだからです。

 

 ただ固定観念とはある意味で人間の自己防衛反応の一部なのではないかとも思います。ある事柄を「こうである」と自分の中で決めつけることで、私たちは安心したいのかもしれません。私たち人間はある事柄について、わからないよりかはわかったほうが安心できることが多いはずだからです。

 

 そうであるからこそ私たち人間は自分の中で次々と固定観念を生み出し続けていくのかもしれません。もし、ある事柄がわからないままだったのなら、延々と考え続けなければなりません。考えるというのは想像以上にエネルギーを使うものです。だから出来るだけエネルギーの消耗を抑えるために事柄に対して決めつけていくことで、自己防衛をしているということがあるのかもしれません、

 

 しかし、往々にしてそのような固定観念に囚われる状態では物事の本当の姿や意味が見えてこないことがあります。私たちは誰しもそのような経験があったりするものではないでしょうか。それと同時に自分の中の固定観念が打ち砕かれて、新たな視点が与えられた経験というものを誰しも一度くらいはしているものでしょう。今日の聖書箇所でも、そのように自らの固定観念に囚われた人が登場しています。

 

 彼はニコデモというユダヤ人の議員でした。議員であったということから彼はそれなりの身分であったことが伺えます。彼はどこからかイエスの噂を聞き興味を抱いたのでしょう、イエスの元へ来てこう言います。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

 

 ニコデモはイエスのことを「神のもとから来られた教師」であるとこの時点で既に認めています。そして彼がイエスのことを認めた理由というのはイエスが行ったしるしにありました。これだけ聞くとニコデモの信仰告白かのようにも聞こえますが、次のイエスの言葉からどうやらそうではなかったことがわかります。イエスは彼に言います。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

 

 みなさんは福音書を読んでいて、イエスがよく「はっきり言っておく」という言葉を使われるのに気がつかれていると思います。この「はっきり言っておく」という言葉は原語では「アーメン」となっており、「これから言うことは真実です」という意味の言葉になります。つまり、この言葉の直後にくるイエスの言葉は特別に強調された大切な言葉になっているわけです。

 

 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。イエスのなされた宣教というのは一言で言い表すとするならばこの「神の国」に関することに集約していました。そうであるからこそ、イエスは特別重要なこととしてニコデモにこのことを伝えたのかもしれません。言うなればこの言葉はイエスのニコデモに対する招きであり、導くための言葉だったのだと思います。

 

 しかし、当のニコデモはこのイエスの言葉に対してこう言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。このニコデモの言葉は当たり前と言えば当たり前の言葉でしょう。このことからわかるのは彼がイエスの言葉を言葉の表面的な意味のみしか捉えていなかったと言うことです。

 

 彼にとって「生まれる」とは肉体的な命として生まれることにしか受け取ることができなかったわけです。しかし、イエスがそのような意味で「新たに生まれる」と言ったわけではないことは次のイエスの言葉に示されている通りです。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」

 

 ここでもまた先ほどに引き続き「はっきり言っておく」が使われています。つまりイエスはこれら「新たに生まれる」ことについて最重要なこととして私たちに伝えようとされているということです。イエスはニコデモが抱いている誤解をここで解こうとしておられます。すなわち肉によって生まれる、言い換えれば肉体的な命として生まれるということここで言っているのではなくて、霊によって新たに生まれるということが言われていることを。

 

 では「霊によって生まれる」とはどのようなことでしょうか。イエスは別の箇所で「霊」についてこうも言われています。「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。この言葉によれば神そのものが霊であり、同時に私たちが礼拝する、言い換えれば神に応答していくときに必要なこととして霊が挙げられています。

 

 このことからイエスがニコデモに語っておられることは、神によって与えられる聖霊を受けることで新たに生まれ変わるということであることがわかると思います。神によって私たちの心、内側から変えられていくことこそがイエスが本当に大切なこととして語られた「新たに生まれる」ことだったわけです。しかし、それでもなおニコデモは言います。「どうして、そんなことがありえましょうか」と。

 

 ニコデモはイエスの言われているこの意味がわからなかったということもあるかもしれません。しかし、同時に自分がこれまで信じていたことに固執して、そのことを変えられたくないと思ってしまっていたということもあったのではないかと思うんですね。なぜならイエスはニコデモに「イスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われているからです。

 

 つまり、イスラエルの教師が学んできたことを用いればイエスの語られたことの意味が見えてくるはずだとイエスは言われているわけです。ニコデモがイスラエルの教師でありながら分からなかったのは、イエスが語られたことを受け入れたくなかったからではないでしょうか。自分の中の固定観念に固執してイエスが言われた新しいことを認めることができなかったのではないでしょうか。

 

 最後にイエスは言われます。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」。おそらくニコデモの他にもこのように固定観念に囚われてイエスの語られる言葉を受け入れられなかった人々が大勢いたのでしょう。

 

 しかし、そのような人々にこそイエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたのでしょう。「新たに生まれる」ことは自分の中に神を受け入れることです。それは私たち自身が作り上げた固定観念に囚われた心のままでは難しいでしょう。「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる」と詩篇に詠われているとおり、神によって砕かれた心にこそ神は御霊を注いで私たちを新たに生まれ変わらせてくださるはずです。

 

 そしてこのことは私たちが何度も経験することでもあるのだと思います。私たちの心が頑なになる度に、神はそんな私たちの心を砕いて新たに生まれ変わらせてくださるのです。何度でも私たちを見捨てることなく、根気強く、私たちを諦めない神の愛がそこにはあるのですから。祈ります。

 

 

 

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」