7月28日主日礼拝メッセージ

 

永遠へ至るパン

 

 

ヨハネによる福音書 6:41-59

新共同訳176p

口語訳146p

 

 

 みなさんは聖書で語られている神の第一印象は一体どのようなものだったか覚えておられるでしょうか。きっとこれはクリスチャンホームで育って小さい時から教会に通われていた方と、私のように大人になってから教会に来て聖書の神と出会った人とでは印象が違うものだと思います。私の家庭はクリスチャンホームでもなければ、特定の信仰を持っている家庭でもありませんでしたから、そのころは漠然とした神のイメージくらいしかありませんでした。

 

 その頃の私のイメージでは人間とは全く関わりを持たない超越的な存在としての神という印象が強かったのを今でも覚えています。ですが、そんな神のイメージは聖書を読んで全く変わっていくことになりました。みなさんも感じられていると思いますが、聖書が語らんとしている神は人間と深く関わりを持ち、親しく語りかけ、そして人間と約束を交わすような神の姿が印象的だと思います。

 

 そのような点において聖書で語られるところの神は聖書以外で語られている神とは一線を画しています。聖書の神の最大の特徴はこの「人間と親しい関係を持つ」というところにあると思います。そして、そうであるからこそ神と人との関係というのは、私たちの「信仰」とは切っても切り離せないほど密接に関わってくるものであると言えるのです。

 

 さて、今日の聖書箇所ではユダヤ人たちとイエスとの問答が描かれています。ここでイエスはご自分を「天から降ってきたパン」と言われていますが、このパンはこのヨハネによる福音書6章冒頭の食物増加の物語と関連していることは明らかでしょう。そこではイエスが大勢の群衆にわずかなパンを増やして与えられたということが示されていますが、そのことは単なる物質としてのパンが与えられたことを指しているものではなく、信仰者の食物としての霊のパン、すなわちイエスご自身が与えられていったということを示しています。

 

 しかし、当時のユダヤ人たちはそのことを理解することも、理解しようとすることもしませんでした。そんな彼らにイエスはこう言われています、44-45「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」。

 

 イエスはここでイエスを知ること自体が、神の側からの招きが無ければ不可能であるということを語られます。イエスと話していたユダヤ人たちは己の知恵や力で真理に到達しようと考えていた節がある人たちですから、イエスは彼らにまずこのように言われたのだと思います。私たちが神のことを知ることができるのは、神の側から私たちに歩み寄ってくださり、そしてご自分を開示してくださるからであり、そのことを体現されているのが人として私たちと同じ立場になられたイエスであるわけです。

 

 イエスはそのことを彼らユダヤ人にも示されるように、ご自分が天から下って来たパンであることの意味を語られています。51節では「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」とかなり直接的に彼らに説明されているのですが、そのことを聞いた彼らは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と大分見当違いの議論を始めてしまいます。

 

 イエスは言葉の奥にある意味の話をしているのに、彼らは言葉の表面だけしか見ていないわけです。私たちももし聖書をそのように言葉の表面だけで解釈しようとするならば、このユダヤ人たちと同じ過ちを犯していることになってしまうでしょう。そんな彼らにイエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言われます。

 

 私たちは毎月主の晩餐式を執り行っていますが、その中で私たちはイエスが言われた通り、人の子の肉を食べ、その血を飲んでいるわけです。ですが、そのことはあくまで私たちの信仰の告白をパンと葡萄ジュースを用いて象徴的に現しているものであるわけです。私たちはそのことを通して神の約束を思い起こし、同時に神との関係を再確認するのです。

 

 イエスはさらに言われます。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 

 イエスはご自分とその肉と血を飲むものは互いの中にいる、すなわち互いが一体であるほどに親しい関係となるということを語られています。それはイエスが父なる神から遣わされ、また神によって生きるのと同じようなことであると言います。ところで私たちが受けているイエスの肉と血とは本質的にどのようなものでしょうか。イエスの肉と血は主の晩餐でも語られる通り、十字架上で裂かれたイエスの肉と流された血であるわけですが、それは十字架の出来事を始めとするイエスの、神の私たちへのメッセージである御言葉と言い換えることができると思います。

 

 そうであれば、イエスの言われた「天から降って来たパン」の真の意味が明らかになってくるのではないでしょうか。イエスは生ける神の言としてこの世界に来てくださいました。「天から降って来たパン」を食べるとはイエスの御言葉、神の御言葉を受け取って、それを食べる、すなわち自分に与えられたものとして味わうことを意味しています。

 

 そのことは今日出て来たユダヤ人のように表面的に読むということではなくて、御言葉を自分自身に向けられたものとして受け取り、御言葉が語ろうとしている真の意味を味わうことを意味しています。そのようにして私たちがイエスの肉と血である御言葉を食べるときに、イエスが語られた通りに私たちは「永遠に生きる」、神との永遠の関係の中で生き続けることができるでしょう。神は私たちに近づいて来てくださり、必要な糧をいつも備えてくださる方ですから、祈ります。

 

 

 

 

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

7月21日主日礼拝メッセージ

 

真の養い手

 

 

列王記上17:8-16

新共同訳561p

口語訳506p

 

 

 現代の日本では私たちにとって必要なものが全て揃っていると言っても過言ではないと思います。衣食住はもちろんのこと、私たちの生活を豊かなものにしてくれるあらゆるものが整えられている…いえ、整えられ過ぎているとも言えるかもしれません。そしてそのような中で暮らしていると、私たちはだんだんとそれが当たり前になってきてしまうものではないでしょうか。

 

 しかし、私たちはそれら一つひとつが元を正せば神によって備えられ、与えられていることを聖書から知らされています。そして、そのことは私たちがどこか「不足」を感じた時に改めて思い起こされることでもあるのではないでしょうか。本来、私たちにとって「不足」の状態こそがデフォルトであって、与えられている状態というものは特別なことであるわけです。

 

 そして時に神は私たちが「不足」と思っている状態から、いかに私たちが神の恵みを受け取っているのかを示されるときがあります。それはもしかすると私たちが「不足」と感じることがあるのは、そのことを思い起こさせるためなのかもしれません。今日の聖書箇所でもそのように「不足」の只中でも与えられている神の惠みとそのことに気づいていく人間の姿が示されています。

 

 今日の箇所は預言者エリヤが神によってある場所へ導かれるところから始まっています。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」。「シドンのサレプタ」という場所はイスラエルから遠く離れた場所にあり、なおかつバアルという異教の神が盛んに崇拝されている場所でした。エリヤが預言をしていたこの時代のイスラエルもまたこのバアル崇拝を行っており、そのことに神はエリヤを通して警告を与えられていました。

 

 しかし、それでもイスラエルは一向に真の神以外のものを神とする、偶像礼拝から離れようとはせず、逆にそれを推し進めるような状態になってしまっていました。そのような背景の中でエリヤが遣わされた場所がよりにもよってバアル崇拝が盛んであった場所であったわけです。エリヤはそこに住むように言われますが、そこにおいて彼を養うために神が用いられるのは一人のやもめであるとも語られています。

 

 当時のやもめと言えば経済的にも社会的にも虐げられていて、とても一人の大人を養う余裕などない立場にありましたから、エリヤを不安にさせるには十分だったかもしれません。ですが、それでも彼は預言者として神の言葉に従って、「シドンのサレプタ」へと向かっていくのでした。そこで彼はさっそくそのやもめに出会うことになります。

 

 エリヤは長旅で疲れていたこともあったのでしょう、出会ったやもめに水とパン貰えないかと頼んでいます。彼が頼んだのは「少々の水」と「パン一切れ」ではありましたが、彼女にとってはそれすらも厳しいことだったのでしょう、次のようにエリヤに答えています。「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」

 

 実はこのやもめ自身生きていくのがやっとどころか、もうほぼ食料が尽きていてあとは死を待つばかりの状態まで追い込まれていたのでした。これを聞いたエリヤはどう思ったでしょうか。神から「やもめに命じて養わせる」と言われた時から不安はあったかもしれませんが、実際に来てみると想像以上の状況にさらにその不安が大きくなっていったかもしれません。

 

 私たち読者の視点から客観的に考えても、このやもめにエリヤを養わせるのは不可能だと思えるでしょう。自分の息子どころか、自分自身も養うことができないこのやもめにさらにエリヤという一人の大人を養わせるのはどう考えても無理があります。しかし、聖書はこのような人間的に考えてあり得ない状況からの神の逆転の物語です。あり得ないことこそが、人でも人が創り出した偶像でもなく、真の神だけが人を救い、養うことを私たちに伝えています。

 

 エリヤは神に仕え、神の言葉を預かり、神の逆転劇を数多く見てきた人でした。エリヤ自身も人間的に考えれば不安はあったでしょうが、しかし、それをも上回る神への信頼が彼にこの言葉を言わせたのだと思います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」

 

 死を待つばかりで絶望の淵にいたやもめはこの言葉を聞いてどう思ったでしょうか。エリヤが最初に「恐れてはならない」と呼びかけている通り、このやもめは当初恐れに支配されていました。しかし、それも無理からぬことだったでしょう。水も食料も尽きて、誰も頼れるものもなく、彼女の目の前には自分の死そしてそれだけではなく、息子の死まで見えていたのですから。

 

 豊穣をもたらす神として崇拝されていたバアルを彼女もまた崇拝していたでしょうが、そんなバアルも彼女を養ってはくれませんでした。そんな彼女に神はエリヤを通してまず「恐れてはならない」と語られたのです。この言葉は彼女に再び前を向かせるための、今まで見て方向から、新たな方向へと目を向けるようにとの招きの言葉でもあったでしょう。

 

 この言葉に彼女自身、驚きや戸惑いもあったでしょうが、さらに神はそこから人間的な考えを飛び越えるようなことを語られています。神は彼女にパンを作るように命じますが、出来上がったパンをまずエリヤ、言い換えるならば神に捧げるようにと彼女に語られています。自分達の分だけでも足りないのに、それを捧げなさいとは、人間的に考えればとても出来ないようなことですが、しかし、続く言葉が倒れていた彼女を起こし、その手を取って立ち上がらせたのでした。

 

 「主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない」。彼女はこの言葉をどのように受け取ったのでしょうか。そのようなことはあり得ない、馬鹿馬鹿しいと背を向けることもできたでしょう。しかし、彼女はその神の言葉に賭けて、立ち上がり、神の言葉に応答して従っていったのでした。彼女が自分の持てるわずかなものを神に差し出していった時、そのわずかなものは決して尽きることなく、決してなくなることはありませんでした。

 

 私たちはみな、このやもめと同じように、本来自分で自分自身を養うことはできない「不足」だらけの存在です。しかし、そんな「不足」を抱えた私たちを、神は私たちの想像を超える方法で確かに養ってくださっていることに気づかされる時があるでしょう。「あなたの命は尽きず、なくならない」。私たちは日々、神によって養われこの命保たれていることを感謝しつつ、その恵みに応答して歩んで参りましょう。祈ります。

 

 

 

やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

7月14日主日礼拝メッセージ

 

希望という糧

 

 

使徒言行録27:33-44

新共同訳269p

口語訳230p

 

 

 みなさんは人間が生きていくために最も必要とするものはなんだと思われるでしょうか?これは漠然としすぎている質問ですし、人によって様々な意見があることだと思いますので答えを出すのが難しいかもしれませんが、最もであるかはともかくとして、人間は食べ物がなければ生きてはいけないことは確かなことだと思います。そして聖書には私たちの肉体を維持するための食べ物の他に私たちの霊を養うための食べ物が必要であることを語っています。

 

 イエスは荒野で試みを受けられた際、聖書を引用されて「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われました。私たちは肉と霊の両方を満たされてこそ真の意味で「生きていく」ことができます。しかし、世間では往々にして霊の糧は軽視されがちだと思います。肉体的には健康でも、心が病んでいるという人は残念ながら現代には溢れかえっていると思います。

 

 私たちクリスチャンにとっての霊の糧は御言葉であるわけですが、私たちはそんな神の言葉から何を受け取っているのでしょうか。それを一言で言うならば「希望」なのだと思います。私たちは日々御言葉からこの「希望」を受け取っているからこそ、霊を保たれ、養われて生きていくことができます。この希望を持ち続けることが生きていく上でどれほど大切なことであるか、ユダヤ人の精神科医であるヴィクトール・フランクルは著書「夜と霧」の中で語っています。

 

 彼はナチスの強制収容所から奇跡的に生還を果たした人物です。精神科医だったフランクルは、冷静な視点で収容所での出来事を記録するとともに、過酷な環境の中、囚人たちが何に絶望したか、何に希望を見い出したかを克明に記しました。詳しい内容は実際に読んでいただくのが良いと思いますが、彼は希望を失った者達から亡くなっていったこと、そして「過酷な環境の中で、心の支え、つまり生きる目的を持つことが、生き残る唯一の道である」とも語っています。

 

 「生きる」ために心の支え、言い換えれば希望がどれほど大きなものであるのか、聖書の中でも絶望的な状況の中であっても希望を失わず生き抜こうとした人々がいます。さて、今日の聖書箇所はパウロがローマへ連行される場面です。無実の罪を着せられたパウロは、皇帝に上訴することを求め、ローマへと送られることになりました。しかし、その途中、パウロ達を乗せた船は暴風に見舞われ、漂流することになってしまいました。

 

 何日もの間、船は流され、ようやく陸が近づいたと見ると船から逃げ出そうとする船員まで現れるような状態でした。船に乗った人々は全員疲れ果てて、希望を失いかけていたことでしょう、ただひとりパウロを除いては。彼自身も肉体的な疲れは当然あったことでしょうが、しかし、そんな中でも彼には御言葉が心の支えになっていたのでしょう。希望を失いかけていた彼らにパウロはこう語ります。

 

 「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」。パウロはまず力をなくしている人々に食事を勧めています。私たち人間にとって肉体は心と密接に関係しているものだからです。

 

 しかし、パウロが語ったのはそれだけではありませんでした。「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」。実はパウロは今日の箇所の前、22節でも同じように共に船に乗った人々に希望の言葉を語っているのです。「しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」。

 

 「だれ一人として命を失う者はない」。パウロがこの言葉を語ったとき、船はすでに漂流状態にありましたから、正直このパウロの言葉を素直に受け止められた人は少なかったかもしれません。しかし、パウロはこの言葉がパウロという人間から出てきた言葉ではなくて、神から受け取った言葉であったことも同時に語ったのでした。

 

 人々はこの神の言葉に励まされて絶望的な状況の中であっても、なんとか希望を失わずに生きることができたのだと思います。もし、この言葉が語られなかったら人々はとうに希望を失っていたことでしょう。人が真の意味で生きていくためには肉の糧と同時に霊の糧、希望が必要不可欠であることをこのことは示しているのではないでしょうか。

 

 パウロは力を失っていた人々の前で、この希望の言葉を語った後、パンを取り、感謝の祈りを捧げた後、それを裂いて食べ始めます。そしてパウロが食べ始めてのち、そこにいた人々も元気を取り戻し、食事をしたとあります。パウロ一人だけではなく、皆の心に希望が蘇った瞬間でした。人々は当初、肉の糧である食べ物を食べる気力すら失っていましたが、希望という霊の糧を受け取ることで、心身共に「生きる」力を取り戻すことができたのです。

 

 そのようにして命保たれたパウロ達一向は、ようやく船をつけることができそうな砂浜を発見し、そこに上陸を試みることになりました。ところがここで事件が起こります。彼らは深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだしてしまいました。パウロをはじめこの船には囚人がたくさん乗っていましたから、この気に乗じて彼らが逃げることも考えられました。

 

 当時の兵士は囚人を逃してしまったら死罪になってしまいましたから、兵士たちは逃してしまう前に囚人達を殺そうとしたわけです。しかし、パウロの命を助けたいと思った百人隊長がこの計画を阻止しました。最終的にパウロの命はもちろん、他の囚人達を含めた船に乗っていた全ての人々が救われたことを聖書は語っています。

 

 最後の箇所では「泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した」とあります。囚人や兵士、そしてその他の人々が互いに助け合ったからこそ彼らはこの絶望的な状況から脱することができたのだと思います。そして、なにより彼ら一人ひとりにそのような思いを与えられたのは神の御言葉から与えられた「希望」に他ならなかったでしょう。

 

 私たちに救いの根底にはいつもこの「希望」が輝いています。私たちは霊の糧としてこの「希望」を御言葉から受け取ることで心を支えられ、そして同時に肉の糧をもいただくことで真の意味で「生きていく」ことができます。神はいつでも私たちを救いへと招き、命を養い続けてくださるかたですから。祈ります。

 

 

 

夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」

7月7日主日礼拝メッセージ

 

変わらぬ約束を

 

 

ミカ書7:14-20

新共同訳1458p

口語訳1292p

 

 

 みなさんは子供の頃、友達と遊ぶ約束をしていて急にそれがキャンセルになってしまったという経験はないでしょうか。おそらく誰しもが似たような経験をされたことがあると思います。大人になってから考えると、「まぁ、相手にも色々事情があったのだろうから、そんなこともあるだろうな」と冷静に思い返すことができますが、子供の頃の当時からしてみれば、「約束を破られた」というショックがそれなりにあったことだと思います。

 

 大人になってからもそうしたことは時にあるかもしれませんが、私たちは子供の頃の方が「約束」というものに敏感だったかもしれません。その理由はおそらく子供同士の関係が大人同士の関係に比べて、より直接的で重たいものであったからではないかとも思います。そういった関係であったからこそ、約束を破られたと感じた時のショックも大きかったのではないでしょうか。

 

 聖書の中でも神と人との関係における約束という概念は非常に重要なものです。聖書は神の約束の書物と言っても過言ではありません。神とアブラハムという一人の人との約束から始まったことは、長い時間が経っても受け継がれ、神とイスラエルという共同体との約束になっていました。しかし、イスラエルにとってそんな神との約束が破られたと感じさせる出来事が起こっていくことになります。

 

 それが「バビロン捕囚」という出来事です。イスラエルはそれまで築き上げてきた全てを失い、異国の地で捕囚としての暮らしを余儀なくされることになりました。この出来事は無論、イスラエルの民にとって衝撃的な出来事であり、自分達のアイデンティティを大きく揺るがされる出来事でした。なぜならイスラエル民族はその歴史の始まりから神の約束と共に歩んできた民族だからです。

 

 彼らにとってこの「バビロン捕囚」の出来事は当初「約束を破られた」と感じるような出来事であったことでしょう。これまで神と共に歩んできたのになぜこのようなことをされるのかと嘆かずにはいられなかったことでしょう。しかし、それは神が約束を破られたからではないのです。神が約束を破られたのではなく、イスラエルの、人の側から神と共に歩むことを放棄したということに理由がありました。彼らがそのことに気がつくには時間が必要でした。

 

 「バビロン捕囚」という長く、苦しい状況の中でイスラエル民族は徹底的に自分達自身と向き合い、そして同時に神と向き合う時間を過ごしていくことになります。その時間こそが大切なものでした。やがて彼らは気がつかされて行きます。神が約束を破られたのでなく、むしろ自分達の方が神との約束を破り、背を向けていたことに。イスラエルに自分自身の不義を見つめ直させるために、神がこのような出来事を許されたということを。

 

 「あなたの杖をもって/御自分の民を牧してください/あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に/ただひとり守られて住み/遠い昔のように、バシャンとギレアドで/草をはむことができるように」。やがてイスラエル民族は神に祈り、求める思いを取り戻していくようになります。神に背を向けていた心が長い時間をかけて再び神に向き合うように変えられていきました。

 

 彼らは神に守られ、導かれること、神との関係の中で生きることを求めていくようになります。バシャンとギレアドとは彼らにとって最良の牧草地帯でした。つまりこれは、イスラエル民族にとっての最良の地に戻ることができるようにとの祈りであるわけです。そしてそのような祈りへ神は応えられています。15-17節「お前がエジプトの地を出たときのように/彼らに驚くべき業をわたしは示す。諸国の民は、どんな力を持っていても/それを見て、恥じる。彼らは口に手を当てて黙し/耳は聞く力を失う。彼らは蛇のように/地を這うもののように塵をなめ/身を震わせながら砦を出て/我らの神、主の御前におののき/あなたを畏れ敬うであろう。」

 

 神はイスラエルの民がエジプトで奴隷として虐げられていたときのことを思い起こさせています。出エジプトの出来事は彼らにとって忘れることができない救いの出来事でした。それと同じほどの救いの出来事をこれからなされることを神は彼らに語っているのです。この言葉は彼らにとって大きな励ましになったのと同時に、自分達がしてきたことを恥じ入らせるものであったかもしれません。

 

 自分達は神を裏切って、神の側から約束を破ったと思い込んでいたのに、神はそのことを責めることはされずに、むしろ救いの約束を語ってくださっているのですから。そのようなイスラエルの民の心情が18節に表れていると思います。「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに」。

 

 「あなたのような神がほかにあろうか」。この言葉があえて「問い」の形であるのは、自分自身を振り返させるためであったかもしれません。イスラエルの民は「バビロン捕囚」という出来事を通して神との関係に再び立ち返っていくことになります。その過程の中で神がこれまで自分達にどれほどの慈しみとまこと(真実)を尽くしてきてくださったかを思い起こしていったのだと思います。

 

 そのような彼らが辿り着いたのが、「咎を除き、罪を赦される神はほかにはいない」という答えであったのでしょう。確かに神はイスラエルに対する「バビロン捕囚」のように時に裁きをされる方です。ですが、その裁きとは咎を除き、罪を赦されるために必要なものであるということをもまた聖書は語っています。神が時に厳しさをもってイスラエルに、私たちに接せられるのは、なによりイスラエルを、私たちを愛してくださっているがゆえでしょう。

 

 私たちと真剣に向き合い、心から愛してくださっているからこそ、神は私たちに対して時に厳しさ、そしてその先にある慈しみをもって関わってくださる方なのです。イスラエルの民はそのことを「バビロン捕囚」の出来事を通して改めて受け止めたのでしょう。再び神の約束に信頼して歩み出そうとしています。「主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか、ヤコブにまことを/アブラハムに慈しみを示してください/その昔、我らの父祖にお誓いになったように」。

 

 イスラエルも、そして私たちも繰り返し「罪」を犯し続けてしまう存在です。しかし、そのような私たちと神は忍耐強く関わり続けてくださり、時に厳しさを、そしてそれをも超える慈しみを持って私たちを導き、共に歩んでくださる方です。そのことを私たちは聖書という「神の約束」として受け取っています。私たちもまたその神の約束に信頼をもって応えていこうではありませんか。神は決してその約束を違える方でないことをまた私たちは知らされてしるのですから。祈ります。

 

 

 

あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない/神は慈しみを喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ/我らの咎を抑え/すべての罪を海の深みに投げ込まれる。