8月25日主日礼拝メッセージ

 

たとえ回り道でも 

 

 

出エジプト記 13:17-22

新共同訳115p

口語訳93p

 

 

 みなさんはご自分の人生の中で「もしかしたらあの経験は無駄だったかな」と思っていることはあるでしょうか。おそらく人間誰しもが一度くらいはそのような経験をしたことがあるものではないでしょうか。しかし、そのような経験も後からよくよく思い返してみると、その後の自分の人生において役に立っていたということもあったりするものかもしれません。

 

 私たちの人生においてそのような謂わば「回り道」のような経験があったからこそ、今の自分自身にそのことが活きているということは大いにあり得ることだと思います。私たち人間はつい短期的に、直線的にしか物事を考えられないような存在ですが、神は私たちのそのような考えを遥かに超えて、ご計画をなされ、私たちに最も良い道へと導いてくださる方です。

 

聖書の中でもそのような一見回り道に思えたことが、実はその後において大切な意味を持っていたという出来事がいくつもあります。今日の聖書箇所もそのような箇所の一つです。この場面はエジプトにおいて長く苦役を強いられていたイスラエルの民がエジプトを脱出して間もない頃です。神の命を受けたモーセの導きによりイスラエルの民たちはなんとかエジプトか脱出することができましたが、その背後にはファラオの追っ手が迫ってきていました。

 

 そのことを考えれば一刻も早く近道を使って逃げたかったと思います。せっかくエジプトから脱出できたのにここで彼らに追いつかれてしまっては元も子もありません。この状況にイスラエルの民としては気が気でなかったことでしょう。しかし、そんな彼らに神はあえて回り道をさせられたのでした。聖書にはこうあります。「神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。」

 

 神は彼らを最短で逃げることができる道ではなく、回り道である葦の海に通じる荒れ野の道へと導かれました。その理由を聖書は「民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない」からと語っています。この近道であるペリシテ街道は当然ファラオ側も知っていたはずですから、そこには多くの敵が先回りしていたというわけです。

 

 そのことでイスラエルの民が意気消沈して降伏し、エジプトに帰ってしまわないように神が計らわれたということでしょう。つまり、この導きには神の深い配慮があったということなのです。このことが示すのは、神は私たち人間が置かれている状況や心境を無視して、ご自分の計画通りに導かれているわけではないということです。私たちに深く寄り添い、伴ってくださる神は私たちのことを深く理解してくださる方だからです。

 

 そのような神がイスラエルの民を導かれたのが、回り道である葦の海に通じる荒れ野の道でした。ですが、この道も決して平坦な道ではなかったと思います。回り道ですから当然それだけ時間もかかりますし、また荒れ野ですから足元も悪く簡単には進めないような道だったのではないでしょうか。ですが、そのような困難な道を通らせることで神は彼らに逃げることなく困難と向き合う心を、そして神を信頼していく思いを与えられたかったのだと思います。

 

 このことはきっと近道をしたりしても、また近道の結果、そのときの彼らの心が折れてしまうほどの困難に直面させられたりしても与えられないものだったのだと思います。神はそのことをご存知だったからこそ、彼らをあえて回り道に導かれ、その中で彼らの状況や心境に寄り添いつつ、適切な試練を与えられたのだと思います。21-22がそのことをよく示していると思います。

 

 「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」。神は民から遠く離れたところで眺められているわけではありませんでした。ご自分が民の先頭に立たれて彼らを導かれました。昼も夜も彼らに伴い、必要な助けを備え、民の心を励まし続けてくださいました。

 

 そのことは神が昼と夜で異なる形を持って彼らを導かれたことに表れていると思います。昼、神は雲の柱の形をとって彼らを導かれました。これは神ご自身が覆いとなり、昼の厳しい日差しから彼らの心身を守られたでしょう。そして夜、神は火の柱となって彼らのいく手を照らしました。たとえ行く道が暗闇に覆われていたとしても、神が照らしてくださるから彼らは進んでいくことができました。

 

 このような神の導きは聖書の中のイスラエルの民だけでなく、私たちにもまた届けられているものです。神はご自分のご計画を無機質に機械的に進められているわけではありません。私たち人間の現状や心情に寄り添ってくださり、その時々で最善かつ適切な導きを与えてくださる方なのです。そうであったからこそ、イスラエルの民はこの厳しい旅路を続けることができました。

 

 そしてその導きは神の約束へと確かに繋がっているものでもあります。19節にこうあります。「モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、『神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである」。イスラエルと呼ばれたヤコブの息子、ヨセフはエジプトの宰相として活躍し、ヤコブたち一家をエジプトで生き延びさせる鍵となった人物でした。

 

 そんなヨセフは神から受けた約束を信じて子孫に言葉を残していました。「残りの者を生きながらえさせ、約束の地に連れ帰ることを」。そのことが長い時間をかけて、言い換えれば随分と回り道をして実現していったことを聖書は語っているのです。私たちに与えられる神の導きは時に随分な回り道に思える時があるかもしれません。しかし、それは神が私たちに必要なこととして、遠い未来まで見通された神の配慮の導きだということです。

 

 私たちの人生は昼の厳しい日差しに突き刺されるような苦しい時も、そして夜の暗闇に飲み込まれそうになる不安の時もあるでしょう。ですがそのような時も神は私たちの心に寄り添ってくださり、雲の柱をもって私たちを守り、そして火の柱をもって私たちを未来へ導いてくださる方ですから。祈ります。

 

 

 

主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。

8月18日主日礼拝メッセージ

 

罪に定めるためでなく

 

 

ヨハネによる福音書 8:1-11

新共同訳180p

口語訳150p

 

 

 世の中には様々なルールがあります。一口にルールと言っても、それらは法律のような厳格なものから、スポーツのルールのようなその競技自体を成立させるためのもの、あるいは家族内でのルールのような緩めのものまで幅広いとは思いますが、そのいずれもが、それらのルールを守らせることによってなんらかの目標を達成するために作られたことは共通していることだと思います。

 

 法律ならば社会の安定化、スポーツならばその競技自体の成立、そして家庭内ルールならば家族間の関係の円滑化といったように、ルールの本質は何かを目指すための土台の役割を担っているものだと言えます。そしてルールを破ってしまった場合、なんらかのペナルティ、罰が課せられるのも共通していることだと思いますが、それは決してルールの本質ではないということです。ルールの本質はあくまでそれを守らせてなんらかの目標を達成することであって、破った際に罰を与えるということがルールの本質ではありません。

 

 今日の聖書箇所は、このようなルールの関する解釈の違いがどのようなことを招いていくのかが示されているところです。この場面はイエスが神殿で教えられていたところから始まっています。おそらくイエスの噂を聞いた民衆たちがイエスのもとに詰めかけていたのでしょう。そこへイエスを敵視していた律法学者やファリサイ派の人々が一人の女性を連れてきてイエスのもとに来てこう言います。

 

 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。この律法学者やファリサイ派の人々は、イエスに自分たちの律法解釈を否定されたことでイエスを敵視していくようになりました。そしてことあるごとにイエスにボロを出させて訴える口実を得ようとしていました。そんな彼らはここでもイエスを嵌めようとしているわけです。

 

 彼らの言っていることは、表面上は律法に沿っていることは確かです。律法にはそのように書かれているところが確かにあるからです。ですがここでこのことを訴え出ている律法学者やファリサイ派の人々は、この律法、つまりこの女性がルールに沿っているのか、いないのかを問題にしているわけではなくて、律法を利用してイエスを陥れること、またこの女性を罰することを目的にしていたのでした。

 

 要するにここで彼らにとって律法の本質とは守らないものを罪に定めて罰することになっていたわけです。それこそが彼らの目的であって、その目的のために律法とそれを守れなかった人を利用していたということになります。イエスはこうした彼らの企みを見透かされていたでしょう。「かがみ込み、指で地面に何か書き始められた」と聖書にはあります。イエスが何を書かれていたのかはわかりませんが、この仕草は彼らに対する落胆や悲しみといった表現でもあったのかしれません。

 

 それでも律法学者やファリサイ派の人々は、彼らとしてはイエスが答えに窮しているように思えたのでしょうか、しつこくイエスに返答を迫ります。彼らの頭の中はなんとかイエスから失言を引き出して、イエスを罪に定めて、そしてイエスを殺すことしかなかったのではないでしょうか。自分の目的のために他者の罪まで利用しようとする彼らの罪がそこにはあります。

 

 イエスはゆっくりと身を起こされると彼らに向かって言われます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。イエスはこう言われた後、さらに地面に何かを書き続けたとあります。先ほどもイエスは同じ行動をされていましたが、なぜイエスはこのようなことをされているのでしょうか、イエスのこの行動にもなにか隠された意味があるようにも思えてきます。

 

 イエスにこのように言われた彼らは年長者から始まって一人、また一人とその場を去っていったとあります。人は歳を取れば取るほど、自らの罪が、そして罪の自覚が増えていくものです。それゆえに律法学者やファリサイ派の人々の中であっても誰一人として「自分に罪はない」と言い切れる人はいませんでしたし、年長者ほどそのことを悟るのが早かったということだと思います。

 

 イエスはただ一人残された女性に言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。イエスが「もう罪を犯してはならない」と言われていることから、律法学者やファリサイ派の人々が言っていたようにこの女性が律法を犯してしまったことは確かなことなのでしょう。しかし、それでもなおイエスはこの女性を罰することはされずに、ただ「罪に定めない」と言われたのでした。

 

 イエスはこれらのことを通して律法の本質を示されようとしたのだと思います。律法の本質、それは人を罪に定め、人に罰を与えるためのものではなく、神の人への期待とそれによって人を生かすためのだということです。神は人に期待されているからこそ、律法をお与えになったのだと思います。そして人が自らの意思でその期待に応答していくことを願っておられるのだと思います。

 

 先ほど、イエスが地面に何かを書かれていたことを覚えておられるでしょうか。ある解釈ではこれは「律法学者やファリサイ派の人々の罪をイエスが書き出しているのだろう」というものがありました。ですがこの聖書箇所が「律法の本質は人を罪に定めることではない」ということを示すものであるとするならば、その解釈は相応しくないと思います。

 

 ではイエスの地面に何かを書くという行動は、どのような意味なのか。それはかつて神が直接書かれた律法の板と同じように、イエスが律法の本質、真の意味を地面、つまり大地に書きつけたということを示すものなのではないでしょうか。モーセが神から律法を受け取って以来、人が誤解し続けてきた律法の本来の意味を改めて示されるために、イエスは改めてご自分の指でそれを書きつけたのだと思います。

 

 律法学者やファリサイ人たちは律法を人を陥れたり、人を殺すものとして使おうとしました。対してイエスは律法を人を生かし、人に期待をかけるものとして新たに示されたのでした。律法は神の御言葉と言い換えることができます。だから神の御言葉は人を陥れたり、人を殺すための道具ではありません。そうではなくて、御言葉は私たちを導き、生かし、そして神との関係へと招いてくださる神の私たちに対する期待の言葉なのです。神は私たちを罪に定めて罰するためではなく、救われるためにイエスを世に送ってくださったのですから。祈ります。

 

 

 

イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

8月11日主日礼拝メッセージ

 

賛美の意味

 

 

詩篇 146:1-10

新共同訳986p

口語訳877p

 

 

 現代の世の中は本当に便利な世の中だなとつくづく思わされます。様々な科学技術によって私たちの生活は快適なものになっていますし、またそれらは今もなおもさらに先へ先へと進もうとしています。しかし便利になったと思う一方で、それらのことが引き起こす負の側面もあるのではないかと思わされることがあります。その中でも特にインターネットをはじめとする通信技術の発達は私たち人間の生き方に大きな影響を与えたものの一つではないでしょうか。

 

 一説によると現代人に入ってくる1日の情報量は500年ほど前の人々が得ていた情報量の一年分に相当するとのことです。私たちはそれほど多くの情報に日々囲まれながら生きているわけです。しかし、情報というものは無さすぎても困りますが、逆に多すぎても私たち人間にとって必ずしもプラスに働くとは限らないと思います。なぜなら、それらの情報というのは玉石混交であって、その中から正しい情報を取捨選択していくのには大変なエネルギーを要することだからです。

 

 またそれらの情報の中には真実でない偽りの情報も当然含まれているわけです。残念ながら今の世界には事実と異なる情報が平然と流れており、それらがさも真実であるかのように報道されていることさえあるのが今の世界の実情だと思います。そんな中で私たちは一体何を信じればよいのかわからなくなってしまうこともあるでしょう。世界はあまりにも欺瞞で満ちすぎていて、しかもそれらが日々数限りなく私たちの目の前に置かれているような状況だからです。

 

 そのような中で、私たちが真に見つめ続けるべきなのはなんであるのか、聖書はその全てをかけて私たちに語り続けています。今日の聖書箇所はこう始まっています。「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう」。この詩編は作者の賛美から始まっています。しかも「わたしの魂よ、主を賛美せよ」と自分自身への呼びかけから始まっているところが特徴的だと思います。

 

 自分自身に、自らの魂に神を賛美することを命じているかのようなこの言葉は、真に見つめるべきは神のみであることを告白しているものでもあります。そして、続く言葉は「命のある限り…長らえる限り…」と、人が生涯にわたって継続的に神を見つめ続けることの重要性をも示すものです。この詩編の作者はそのことを「賛美」という形で、いえ「賛美」の目的こそが「神を見つめ続けるため」であることを語らんとしているのだと思います。

 

 作者はこう続けます。「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる」。「人に寄り頼んではならない」、このことは聖書の中のあらゆる場面で繰り返し語られ続けていることであり、現代に生きる私たちにも同様に語られている言葉です。少し現代的に言い換えるとするならば「人が語る溢れかえる真偽不明の情報を信じ、頼りとしてはならない」といったところでしょうか。

 

 このことは「人間には救う力はない」と続いていることからも無理な言い換えではないと思います。この詩編の作者は人間の無力さを受け入れており、そのことを人生の基本的なベースとするよう勧めているように思えます。これはなにも作者の悲観的な考えから出たものではなくて、聖書が繰り返し語る信仰の基本的姿勢として語られていることに沿ったものであり、ただ神だけが私たち人間を救うことができる方であることを強調し、そこにこそ目を向けさせるものでもあるわけです。

 

 そのことを示すように作者は人に頼ることの虚しさと対比させる形で、神に頼り、その神を見つめ続けていくことの幸いを語ります。「いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を」。

 

 ここでは「ヤコブの神」という表現がされていますが、このヤコブはもちろん創世記に登場するイスラエル12部族の始祖となったヤコブのことです。このヤコブという人は兄であるエサウの長子の権利を奪い取ったことをきっかけに長い逃亡生活をすることになりました。その中で彼は真剣に向き合うことのなかった神と向き合っていくこととなり、様々な出来事を通して神の助けや導きを経験していきました。そして今まで策略などの自分の知恵に頼っていたヤコブは神によって変えられていき、真に頼るべきは神のみであるということを知らされていくのです。

 

 そのようなことから、この詩編の作者はここであえて「ヤコブの神」と表現したのだと思います。私たちもまたヤコブのように自分の人生に関わってくださる神を感じていくときに、それまで自分の知恵や力、あるいは目に見える力に頼っていた自分自身から、真に頼るべき信頼できる方は神のみであることを知らされていくことがあるのではないでしょうか。そしてそれらは私たちの危機の時にこそ感じやすいものかもしれません。

 

 おそらくこの詩編の作者自身もそのような人生の危機に直面して神へと導かれた経験があったのだと思います。そうであるからこそ、彼は人間を、自分自身を救うことができるのは神のみであることを確信しているのでしょう。6節後半-9節では私たち人間のあらゆる危機や苦難から救い上げる神の助けが語られています。

 

 「とこしえにまことを守られる主は 虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち 主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる」。

 

これらのことは、神の救いというものが個人から共同体まで、そして人の肉的な必要から霊的な必要まで全てを満たすものであることを語っています。神は全ての人を神との関係へと招いており、その招きに応えた人に必要な全てを備えてくださる方だからです。そしてなにより神は私たちいつもまこと、すなわち真実を尽くしてくださる方です。

 

 その神の真実は聖書を通して今も語られる約束によって私たちに届けられています。私たちが見つめ続けるべきもの、それはこの世の優秀とされている指導者でもなく、素晴らしいとされている思想でもなく、ましてや自分自身の知恵や力でもありません。私たちに慈しみとまことを尽くしてくださる神をこそ私たちは賛美し、そして信頼をもって見つめ続けていこうではありませんか。祈ります。

 

 

 

いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人 天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。

8月4日主日礼拝メッセージ

 

神との関係にある平和

 

 

エフェソの信徒への手紙 2:14-22

新共同訳354p

口語訳302p

 

 

 ここ数年間の内に私たちを取り巻く世界の状況は大きく変わりました。中でも2022年のロシアによるウクライナ侵攻、そして2023年にはイスラエルとハマス(パレスチナ)戦争が勃発したことは今でも記憶に新しいですし、それらの戦争は今もなお継続している現状があります。

 

 多くの命が無意味に失われる戦争、その根底にあるものはなんでしょうか?どうして戦争は起きてしまうんでしょうか?国が戦争を起こす理由は様々だと思います。領土の拡大、資源の獲得、民族間の対立、宗教的問題、多くの理由がありますが、しかし、これらに共通していることは奪う側と、奪われる側がいるということです。奪い、奪われるのは一方的な場合もありますが、もちろんお互いに奪う側と奪われる側の立場を入れ替えながらなされていく場合もあります。しかしいずれにせよ、住む場所、生きていくために必要な資源、自分の同胞、自分の信じるもの、そして何よりも大切な命…それらを奪い、奪われるのが戦争だということです。

 

 では、その奪う側と奪われる側にはどのような隔たりがあるのでしょうか?奪う側は奪われる側の思いを理解しているでしょうか?奪われる側が奪われる大切なものというのは、奪う側にとっても大切なもののはずです。自分の住む場所、自分の生きる糧、自分の家族や仲間、自分の信じるもの、そして自分の命…それらは誰もが大切にしているもののはずです。それぞれが大切にしているそれぞれの大切なもののはずです。もし、奪う側の奪おうとしているものは、奪われる側の人にとって大切なものだ、ということを奪う側が理解していたら、奪うことはしないはずです。

 

 しかし、現実には人の歴史が始まってから、戦争が、争いがなくなったことはありません。それは、人が他者のことを理解しようとしない、あるいは理解できないという「罪」を抱えているからです。戦争の、争いの根底にあるのはこの他者への無理解と不理解という人間の罪に他ならないのです。

 

 この人間の罪の具現化した形ともいうべき戦争と逆の道が、神が私たちに示してくださっている私たちが招かれている道だと思います。神によって罪から救い出された私たちが神から招かれている道、それは「平和」への道です。しかし、一口に「平和」と言ってもいったいそれはどのようなものなんでしょうか?本日は、その「平和」について皆さんと共に御言葉から聞いていきたいと願います。

 

本日の聖書箇所の14節にはいきなり今日の結論ともいうべきことが語られています。「キリストはわたしたちの平和である」「平和」という言葉を聞くとき、みなさんはどんなことを想像するでしょうか?何も災いや争いが起こらないときに、それが平和であると考えるかもしれません。しかし、ここで言われている「平和」はそれとは少し違います。

 

「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」。二つのものを一つにする…さらに言えば異なるもの同士を一つにするということです。そしてそれは、「敵意という隔ての壁」をキリストが取り除くことで実現されていきます。

 

私たち人間というのは、自分と異なるもの、自分の知らないものをどうしても理解できなかったり、あるいは理解しようとするよりかは、自分の中で決めつけたり、排除してしまいたがる存在です。そして敵意とはこうしたお互いを理解しようとしない思い、不理解から生まれます。お互いがお互いを理解することを諦めたとき、相手を排除しようとする敵意が芽生え、そしてその敵意は争いを生んでいきます。しかし、キリストが十字架につけられた今、この隔ての壁、理解の壁は取り除かれることになりました。

 

なぜなら、その他者を理解しようとしない思い、あるいは理解できない思いこそが私たちが抱える罪の本質であり、その罪を滅ぼしてくださったのがイエス・キリストの十字架だからです。そう考えると、キリストによる「平和」とは、私たちが抱える罪、無理解の壁を超えること、お互いがお互いを理解しようとする「相互理解」への歩みだと言えます。この「相互」というのが重要です。片方がもう片方を「理解」しようとするだけではありません。ユダヤ人が異邦人のようになるのでも、異邦人がユダヤ人のようになるのでもないのです。

 

 お互いが理解し合うというのは、どちらかが相手に合わせる、あるいは吸収されるというようなことではありません。そうではなくて、そこに今までとは違う全く新しい関係が両者の間に生まれることを意味しています。15節の「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」とはそのようなことを言っているんだと思います。異なるもの同士が「新しい人」に変えられていきます。

 

だからこそそのことは、人同士の新しい関係のみに留まることはありません。16節「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。「新しい人」へと変えられた私たちは、同時に神との新しい関係にも入れられているのです。私たち人間が抱える罪の本質、無理解と不理解は神に対しても隔ての壁を作っていました。そのことで人間は神に背き、神を排除しようとしてきました。

 

しかし、今やその神に対する隔ての壁すらもイエス・キリストの十字架によって取り除かれました。私たちが抱える神に対する無理解と不理解によって断絶していた神との関係はイエス・キリストの十字架によって和解させられたのでした。そしてこの神と私たち人間との新しい関係と、「新しい人」として一つとされた私たち人間同士の新しい関係、すなわち十字架の関係こそが、キリストによる「平和」そのものなのです。つまり、「平和」とは表面上単に災いや争いが起こらない「平穏」のことではなくて、私たちがイエス・キリストの十字架によって結ばれた新しい関係の中でお互いを理解しあいながら生きることを意味する言葉なのです。

 

 他者への無理解と不理解という自らの力では拭いきれない罪を抱える、お互いを理解し合えない私たち人間は、キリストに手を引かれるようにして一つの場所に招かれていきます。それは、父なる神と子なるキリストと聖霊なる神が交わる場です。つまり、イエス・キリストの十字架によって結ばれた新しい関係というのは、三位一体の神の愛の関係のうちに入れられるということを意味しています。三位一体の神はご自身の内に愛の関係性を持っています。それは父・子・聖霊なる神の親しい関係であり、三者の間で誤解なくお互いを理解し合っている状態、この神ご自身が表されている関係こそが、私たちが示され、また招かれている神の「平和」なのです。

 

 私たちが生きるこの世界は今もなおこの神の「平和」からは程遠い状態になってしまっています。それは私たちが敵意という隔ての壁を作り続けているからに他ならないでしょう。しかし、それでも私たちにはこのキリストによる相互理解という「平和」をこの世界でつなげていくという務めを神から期待されています。私たちが互いを憎み合う言葉から、二つのものを一つとしていく神の御言葉に耳を傾けていくとき、世界はたとえ少しづつでも真の平和への道を歩み出していくことができるでしょう。神は遠くにいるものにも、近くにいるものにも「平和」を宣べ伝えておられるのですから。お祈りします。

 

 

 

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。