9月15日主日礼拝メッセージ

 

人の心の内に 

 

 

エフェソの信徒への手紙 3:14-21

新共同訳355p

口語訳303p

 

 

 世の中には様々な共同体、コミュニティがあります。学校や企業はもちろん、地域や趣味のコミュニティ、そして近年ではインターネットでのオンラインコミュニティも珍しくはなくなってきています。私たち教会もそんなコミュニティの一種ではあるわけですが、その一方で教会というコミュニティはある意味でとても不思議な共同体だと思います。なぜならコミュニティにはそれを動かしていく目に見える力がありますが、教会には側から見ればそれがないように見えるからです。

 

 企業などは特にわかりやすいですが、企業を動かしていく力は明確にお金であるわけです。もちろん働く人の力も必要ではありますが、その働く人もお金を得るために仕事をしているわけですから突き詰めて考えるならば、企業を動かす力はお金ということになります。その他のコミュニティも多かれ少なかれ、もちろん例外はあるかもしれませんが、お金がその原動力になっている場合が多いと思います。

 

 では教会はどうでしょうか。もちろん教会といえどもそこは人が集まって構成されているコミュニティですから活動していくためにお金はどうしても必要になってはきます。それは否定できない事実でしょう。しかし、お金が教会の原動力なのかと言われれば、それは違うとはっきり否定できることと思います。なぜなら教会とは神の目的のためにたてられたものであり、そこへと招かれた私たちは神からすでに原動力を受け取ってここに集められているからです。

 

 では私たちがすでに受け取っている神からの原動力とは一体なんなのでしょうか。今日はそのことをみなさんとご一緒に聖書から確認していきたいと願います。今日の聖書箇所は「こういうわけで」という出出しで始まっています。つまり、この前の内容が前提となって今日の箇所が語られているというわけです。では、この前でどのようなことが語られていたのかを簡単に確認しますと、異邦人にも神の福音が知らされているということ、つまり神の福音は全ての人に向けられているということが語られていたわけです。

 

 その上で次の15-17へと続いていくわけです。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

 

 ここでは「内なる人」や「あなたがたの心の内」と人間の内面的なことに関する言葉が並んでいます。また「愛」という言葉が強調されてもいます。このエフェソの信徒への手紙の著者は、これまでの手紙の中で「愛」というものを神の性質と意図の核心として捉えています。つまり、神の愛こそが私たち人間を、教会を動かす原動力であることをここで語っているわけです。

 

 また聖書の根幹のメッセージが語っている通り、神がその愛によって私たち一人ひとりをその愛の関係へと招かれたことこそが私たちにとっての救いですが、そのことは同時に私たちの内に神が住んでくださり、私たちの中で神が働かれるということと直結するわけです。そして神が私たちの内におられることで、私たちは神によって少しずつ自分自身が造り変えられていきます。私たちははじめに神の一方的な愛を受けとったからこそ、その愛に応答するものとして招かれているのです。

 

 私たちが限りない神の愛を受けていることは、聖書から、また私たちの日々の信仰の歩みの中で知らされていくものです。そのことを著者は18-19で次のように書いています。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

 

 私たちクリスチャンは神と出会い、神の愛を知る者となったことで、神との愛の関係の中に入れられる者、すなわち救われた者となったわけですが、ここで語られている通り神の愛は私たち人間の知識をはるかに超えて大きなものであり、とても私たちが完全に理解することのできないものであるわけです。ですがそれでも私たちにはそんな神の愛、言い換えれば神の目的や意図を断片的に知ることが許されており、また求められてもいます。

 

 私たちが神の愛に根差した目的や意図を理解していくことで、私たちの心は新たに創造され、神の愛に自らの意思を持って応答していくものとされていくのです。そうであるからこそこのエフェソの信徒への手紙の著者はこう語るのです。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と。

 

 私たちの内には神の力が働かれています。それこそが私たちを突き動かす原動力であり、逆に言えばそんな神の力によってしか、私たちは神のための働きをなすことはできないのです。私たちの内に働かれる神は、私たち人間からは決して出てこない力をもって私たちを用いられ、その目的のために私たちと共にお働きになる方です。そして、その働きには教会というコミュニティを通してより具体的に、幅広い射程をもってなされていきます。

 

 ゆえに教会はキリストの体と呼ばれ、神の愛に根差した目的と意図を多くの人々に伝えていくことができます。教会の先頭にはいつも神が先立ってくださり、私たちの内に働く原動力となって教会の働きを導き、支えてくださっています。たとえ人にはできなくとも、神には全てのことができると私たちが確信し、信じるなら、神は豊かな恵みを持って私たちの信仰、信頼に応えてくださる方です。神は私たち一人ひとりの名前を呼んで、ご自分との関係へと招いてくださる方なのですから。祈ります。

 

 

 

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

9月8日主日礼拝メッセージ

 

御言葉という声に 

 

 

ヨハネによる福音書 10:1-6

新共同訳186p

口語訳155p

 

 

 私たちが普段から読んでいる聖書はみなさんご存知の通り世界で最も売れている本であるわけです。それだけ多く売れているということは同時に、それだけ多くの人に読まれているということでもあり、それゆえに聖書の言葉はそれだけ多くの人を励まし救ってきたということも間違いないことだと思います。しかし、一方で聖書は世界で最も人に利用されてきた本といっても過言ではないと思います。

 

 聖書は古代から現代に至るまであらゆる場面で人の都合を正当化するために利用されてきました。その最たるものが戦争を起こすための大義名分として聖書の一部分を切り取ってそれを旗印に仕立て上げることでしょう。このようなことはなぜ起こってしまうのでしょうか。もちろん、人間の欲望によってこのようなことが起きる一因になっていることは間違いないですが、もう一つの要因は、聖書それ自体が解釈の余地を広く認めている書物だということにあるのだと思います。

 

 そのことにより、聖書はその読者ごとの多様な解釈を許容しているゆえに、人を励まし、救う言葉としてそれを受け取る人もいれば、人を傷つけ、殺すための道具として利用する人間まで出てきてしまうことになってしまったわけです。ですが、このような解釈の幅はそのすべてが認められるものではないと思います。なぜなら聖書はあらゆる解釈が可能である幅の広さを残しているのと同時に、その中で真に響く解釈の軸ともなるべき「声」が込められているからです。

 

 その「声」を聞き分けることによって、私たちは自分の解釈が自分勝手に聖書を利用するものであるのか、それとも神が今自分に語らんとしている「御言葉」であるのかを知ることができるのです。今日の聖書箇所はまさにそのようなことを示すための御言葉ではないかと思います。この「羊の囲い」の譬えはファリサイ派の人々に向けて話されたたとえです。この記事の直前でイエスとファリサイ派の人々とのやりとりがあり、その流れでのこの譬え話だということです。

 

 ファリサイ派の人々はイエスを訴える口実を得るために彼らは自分たちが信じる律法を盾にとり、なんとかしてイエスを陥れようとしますが、一向にうまくいきませんでした。そのようなことをしている彼らにイエスはこの「羊の囲い」のたとえを話されたということは、このたとえが示すものが律法理解、引いては聖書の解釈に関わるものであるということでしょう。

 

 そのことを踏まえた上でこの譬え話を見ていきたいと思います。イエスはまずこう言われます。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである」。聖書の中には羊関連のたとえが非常に多く登場します。私たちにとってこのようなたとえはあまりピンと来ないかもしれませんが、羊とは非常にか弱く、視力も弱く、一匹だけではとても生きていけないような生き物だということを認識しておけば、差し当たりこのたとえを解釈するにあたって問題はないでしょう。

 

 そのようなか弱い羊でしたから、当時のイスラエル社会では、羊飼いが羊を牧する光景は、ごくありふれたものでした。町の近郊に羊を入れる囲いがあり、昼間はえさを食べさせるために外に出しますが、夕方になるとこの囲いに羊を入れるわけです。他にもいくつかの羊の群れがこの囲いに中に入ります。朝になると、羊飼いがやって来て、門番が門を開きます。そして、羊飼いが声をかけると、その羊だけが出てきて、彼について行きます。他の羊飼いの群れもいるのですが、ついて行きません。なぜなら、羊は羊飼いの声を知っているからです。当時の人々にとって、このような光景はごくありふれた光景でしたからイメージはしやすかったと思います。それはこのたとえを聞くことになったファリサイ派の人々も同様だったでしょう。

 

 羊の囲いは羊を狙う狼などの外敵から羊を守るためのものであったわけですが、イエスの譬えでは正規の入り口である門を通らずに囲いを乗り越えて入ってくるものがいると言われています。もし実際の羊の囲いに外敵が入ったら大変なことになるのと同じように、譬えの中でもそのようになることはイエスが囲いを乗り越えてくる者たちを盗人や強盗と表現していることからも想像できるでしょう

 

 この譬えが律法理解や聖書の解釈に関わるものであることを前提に解釈していくならば、羊の囲いとは聖書のことで、羊が読者、そして囲いを乗り越えてくる者たちは自分勝手に律法及び聖書を解釈する者たちを指しているものを考えられます。そしてそうであるならば、聖書が真に語らんとする指針から外れた解釈はそれこそいくらでもできてしまうということをこの譬えは示しているものでもあります。

 

 なぜなら正規の入り口である門を通らずにいくらでも囲いの中には入れてしまうということですから。誰でも聖書の字面、表面は読むことができますが、しかし、その先の声を聞きわけることは盗人や強盗にはできないことをもまたイエスは語るのです。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

 

 聖書の語る真のメッセージを受け取るには羊飼い、つまりイエスの声を私たちが聞き分けることにかかっています。イエスは私たち一人ひとりの名前を呼んで、言い換えれば一人ひとりと異なる出会い方をしてくださり、ご自分との関係へと招いてくださる方です。だから私たちは初めて神と出会った際に、その声を聞き分けていたはずです。しかし、ふとした時その声が聞こえなくなってしまう時があったりするかもしれません。

 

 そんなとき私たちは聖書が語らんとする私たち自身に向けられたメッセージではなくて、ファリサイ派の人々のように自分の思いだけで、都合のために聖書を解釈してしまっているのかもしれません。ですがそんな時からも導いてくれるのもまた御言葉なのだと思います。たとえ私たち羊のように群れから逸れたとしても、神は私たち一人ひとりを見つけ出してくださり、御言葉という声を持って呼びかけてくださる方です。

 

 私たちはそんな神の声に共に耳を傾け続けていきたいと思います。一人だけではなく、共に聖書を読むことで私たちはより豊かな神の御言葉を、神の声を聞いていくことができるはずですから。祈ります。

 

 

門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。

9月1日主日礼拝メッセージ

 

向き合う心を 

 

 

エレミヤ書 28:1-17

新共同訳1228p

口語訳1093p

 

 

 みなさんは耳の痛いことを誰かから言われた経験はないでしょうか?直接的ではなかったとしても誰かのふとした言葉がまるで自分に向けられていることのように聞こえることが誰しも一度くらいはあったりするものだと思います。耳の痛いことを言われた直後は誰でもあまり穏やかな気持ちではいられないものでしょう。その言葉が心に突き刺さって、まるで魚の骨が喉に刺さった時の如く、チクチクとその存在感が大きく感じられるものではないでしょうか。そのようなことはできれば避けたいと思うのも無理はないことでしょう。

 

 しかし、少し時間が経ってその耳の痛い言葉を自分自身で冷静に受け止められるようになった時、そしてその言葉と向き合った結果、今までの自分自身が今までよりも善い方向に変えられていったことが実感できることがあったりするのではないでしょうか。このような、私たちを変える耳の痛い言葉というものを一番受け取る可能性の高いものが聖書なのだと思います。

 

 私たちが間違った方向に進もうとする時、神は聖書を通して語りかけ、御言葉をもって私たちの道を正される方です。その時の言葉はおそらく私たちにとって耳の痛いことであることがほとんどでしょう。私たちがその言葉に耳を傾けるか、あるいは無視して聞き感触の良い言葉だけを聞くのか、その選択は私たちに委ねられてはいますが、神はどのような御言葉であってもそれと向き合うようにと招かれています。

 

 今日の聖書箇所では、そのような耳の痛い言葉にどのように向き合うのかが問われています。今日の場面はイスラエル南北王国時代、すでに北イスラエルは滅ぼされ、残る南ユダもバビロンに圧迫されて、一部の民は捕囚としてすでにバビロンに連れて行かれ、危機的な状況にありました。そのような中、預言者エレミヤは神の言葉を受け取り、当時のユダの王ゼデキヤをはじめ同じくバビロンによって圧迫されていた諸国の王たちに預言を語っていきました。

 

 神はエレミヤを通してユダとその周辺諸国をバビロンの王ネブカドネツァルに全て与えるという預言を語らせたのでした。当然その預言の内容はユダとしても、そして諸国の王たちにとってもとても簡単には受け入れられないようなものでした。ユダの人々にとって、その神の言葉は耳の痛い、耳障りの悪い言葉だったわけです。エレミヤがそのような預言を語る中、そんな預言とは全く真逆の預言をする者も現れました。

 

 それが今日の箇所で登場しているハナンヤという人物でした。彼はユダの祭司や民衆の前でこう語ります。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである」。

 

 ハナンヤはバビロンによって持ち出された祭具や、また連れて行かれたユダの人々すべては神によって連れ帰らせられると語っています。しかも、二年のうちにと言っていますから、今の状況が急転していくということをも語っていることになります。正直、当時のユダの状況は二年程度で好転するものとは思えないものでしたから、ハナンヤはかなり大胆なことを言っていることになります。

 

 ハナンヤの言葉は一見、真っ当な預言の言葉にも思えます。神が預言者を通してこのような回復の預言を語らせて民を励ますことは他の聖書箇所でも見られることだからです。しかし、ことここに限って言えば、これは神の言葉ではなく、ハナンヤが自分勝手に語った偽の預言であることがわかります。なぜなら、預言者の務めとは、危機的な状況の中で神への立ち返りを促すことであるからです。

 

 そもそも南ユダを含めたイスラエルがここまで危機的な状況になったのは、イスラエルの民の神への背きが原因だったことを聖書は語っています。彼らは偶像礼拝をはじめとする様々な罪を犯して、神との関係を崩していきました。預言者の立ち返りの言葉も聞かず、ついに北イスラエルは滅ぼされ、残る南ユダまでもが危機的状況に陥ってもそれでもなお彼らは神に立ち返り、悔い改めるということをしませんでした。

 

 そのような状況の中で神がハナンヤが語ったような預言を語らせるはずはないのです。神が預言者に回復の預言を語らせる時というのは、民が悔い改めが前提になっているからです。神は罪を罪のままにしておかれない方です。人間のように罪をなかったことにしたり、見過ごすことはなさらない方です。だからこの状況で神が預言者に語らせる言葉はエレミヤに与えられた言葉のように裁きの預言であったわけです。

 

 神は私たちを悔い改めさせ、罪から立ち返らせる過程として裁きをされます。だから「裁き」とは私たちは神との関係に戻っていくために必要な途中過程であるわけです。その過程を飛ばすということはできないのです。エレミヤもそのことをわかっていたからこそ、イスラエルの民にとって必要な言葉であると確信していたからこそ、彼らに耳の痛い言葉を語っていったのだと思います。

 

 彼らがその御言葉を受け止め、自らの罪と向き合っていった時はじめて神との関係の回復の道が開かれていくのですから。ですが、人間とは自分に都合の悪い言葉、聞き感触の悪い言葉には耳を塞ぎたくなるのもまた事実でしょう。ハナンヤはなおもエレミヤに、ユダの民衆にこう言い放ちます。「主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く」。

 

 エレミヤは神によって首に軛をはめられていました。軛とは牛や馬などの首に取り付けられる器具のことで、聖書的には抑圧と奴隷状態を象徴するものとして登場することが多いです。神はエレミヤに軛をはめることでイスラエルがこれから直面する抑圧と奴隷状態を視覚的な預言として与えられたのだと思います。ハナンヤはその預言の方こそ偽りだとそのエレミヤの軛を砕きますが、神はエレミヤに更なる預言を与えられるのでした。

 

 「行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた。」「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ、主はこう言われる。『わたしはお前を地の面から追い払う』と。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ」。

 

 神はたとえ木の軛から目を背けても、その後にはさらに重く砕くこともできない鉄の軛があることを語っています。私たちはたとえ一つの御言葉から目を背けて聞き感触の良い言葉に逃げても、真の安らぎを得ることはできません。なぜなら真の安らぎとは聞き触りの良い言葉を聞いて自分の心を誤魔化すことではなく、たとえ厳しい言葉でもそれを受け入れて神へと立ち返ることによってしか与えられないからです。

 

 私たちが耳の痛い御言葉から逃げるのではなく、向き合う心をもって格闘していく、その果てに神は私たちの心に新たな思いを創造してくださるはずですから。祈ります。

 

 

行って、ハナンヤに言え。主はこう言われる。お前は木の軛を打ち砕いたが、その代わりに、鉄の軛を作った。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、これらの国すべての首に鉄の軛をはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らはその奴隷となる。わたしは野の獣まで彼に与えた。」「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。